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生きづらさに名前を付けないでみる。

高校の教科は地学が好きだった。(長くなるので理由は省略)
でも、「宇宙の歴史」はちょっと苦手だった。
小学生くらいのときから苦手だった記憶がある。

宇宙の、何億何兆っていう歴史を語られると、自分があまりにもちっぽけで無力に感じて、生きる意味を見失う気がした。得体の知れない不安、孤独感のようなものに襲われた。

なにか、深く傷ついた経験があるわけじゃないし、不自由の多い生活をしていたわけじゃない。むしろ、たくさんの愛を受けて、とてもありがたい環境で育ったと思う。
でも、こういう、よくわからない生きづらさ、みたいなのは、不意にやってくることがある。

世の中には、名付けようのない生きづらさがあるんじゃないかと思う。

生きづらさに名前をつけ、社会課題にし、社会運動になる。そうやって多くの人の権利が取り戻されて、制度やサービスができて、セーフティネットが張られてきた。すごくすごく大切な営み。

だからこそ、私はあえて、名前の付かない生きづらさに、名前を付けずに向き合ってみたいと思う。
そこには制度もサービスもセーフティネットもないから。

「親を亡くした若者」のケアをする、そんな場所があったら、と思って、探した。藁にも縋る思いだった。そして、助けられた。

いまは、どちらかというと、ラベリングされたくない気持ちがある。
生きること、死ぬこと、得ること、失うこと、傷つくこと、ケアすること、それらは日常のなかにころころと転がっていて、それらに痛められたりケアされたりして生きるのが、いまの私には自然だから。
なにも言わずに、友達と笑い合ったり、しょうもない動画を見たり、好きなものに囲まれているのがいい。だれにもどうしようもない痛みが、生きづらさが、いつのまにか和らぐから。

名付けたいときは名付けて、ケアできるような環境を。
名付けたくないときは名付けずに、日々の暮らしの中でいつのまにか、あたりまえに、ケアしケアされる環境を。

課題を課題として認識し、社会を変えていくこと。
いつのまにか、あたりまえにあるケアを、さりげなく、でも確実に、つくっていくこと。
両軸でソーシャルワークをしていきたいなと思う。


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