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気まぐれな断想 #31

 年々、個人的に出会うことが増えているように思うのが、面接の中でクライエントが経験した(している)ことではなく、自分が経験した(している)ことを優先的に(あるいはもっぱら)語るカウンセラー(の卵)たちである。

 そうしたカウンセラーたちは、面接においてクライエントの言動に対して自分が感じた不安や傷つきを熱心に語る一方で、クライエントの経験、とりわけ、カウンセラーがそのように反応(?)しているのだとして、そのようなカウンセラーを目の前にしてクライエントが何を感じ、何を経験している可能性があるかについては、ほとんど(あるいはまったく)関心を示さない。自分の心の傷つきにはひどく敏感である一方で、クライエントの心の痛みに対する感受性は(驚くほど)低く、想像も及ばない(及ぼそうとしない)ようである。

 一昔前は、「陰性治療反応」という言葉を使いたがる人は、カウンセラーから見たクライエントのあり方の一種を指してその言葉を使った(不適切に乱発した)ものだったが、今では「陰性治療反応」はカウンセラーの方が起こすものらしい(もちろん悪趣味な冗談です)。

 自分自身への関心から抜け出すことが難しいカウンセラー(の卵)たちが、一昔前に比べて、明らかに増えているのではないかというのが私の印象なのだ。クライエントの言動に「傷つき」「閉じ込められた」と感じて自分自身へと引きこもるカウンセラーは、目の前にいるそうしたカウンセラーとなんらかの形でつながりを回復しようと自分なりのやり方で努めるクライエントからの精一杯の呼びかけに反応することが、しばしばできない。自分自身へと引きこもるカウンセラーには、そうしたクライエント流の精一杯の呼びかけが、例えば、クライエントは瑣末な日常のエピソードを延々と繰り返して話し続けているに過ぎないのだと受け取られる。そして、自分がそのように受け取ったクライエントの振る舞いについて、そうしたカウンセラーは、それこそがクライエントの問題を生むパターンなのだという「理解」(もちろんそれは誤認である)に達する・・・。

 多くのクライエントは、自分の心の痛みを、痛みそのものとしては語らない、あるいは語る方法を持っていない。しかし、クライエントの語りの中に、行動の中に、その痛みはしばしば滲み出る。カウンセラーの仕事は、クライエントの言葉を誠実に受け止めることに努めながら、同時にそうしたクライエントの言葉がまとう、あるいはそこから滲み出る心の動き(それはやはりなんらかの「痛み」あるいは「怒り」であることが多いように私は思う)をも感じ取ることに努めること(それは「言葉の裏の意味を読む」という営みとはまったく異なります)。そこからしか、心理臨床の仕事は始めることができないし、それに努め続けることが、この仕事の外すことのできない本質であると、私は思う。(KT)

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