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多義性/一義性

一つの物事が意味することは必ずしも一つとは限らないこと、すなわち事象の多義性は、この世界である程度の年数を生きていれば、自然とわかることだと思っていた。しかし、そうではないのかもしれない。

一枚の人物画が、自己像を表しているとともに、理想像や他者像をも同時に示しているということ。あるいは、クライエントの言葉が、ときにアンビバレントな内容を含む、多義的なものであること――心理臨床を志す人たちにおいて、こうしたことが納得されにくくなった感がある。
代わりに、「この描画が表しているのは○○である」とか、「クライエントのこの発言は××という意味だ」といった、一義的な「正答」が強く求められているのだと感じることが増えた。
もう少し大きな視点からいうとすれば、心理臨床に係る様々な事象から多義性を廃して、一義的なものとして扱う理論や技法こそ望ましいとする、時代の趨勢が感じられるのである。

そうした流れを志向する人たちは、事物とその意味が一対一で対応していると、本気で考えているのだろうか。多分そうではあるまい(と信じたい)。自分の心の有り様に目を向けてみれば、それが決して一義的なものではないことに、すぐに気づくはずだから(と信じたい)。
にもかかわらず、心理臨床において一義性を求めるのはなぜだろう。おそらくは、そのように考えることが楽で、安心だからなのではないか。なんとなれば、事象と固定された意味の対応関係さえ覚えておきさえすれば、あれこれ考え、迷い、葛藤し、不安になることはないのだから。

しかし、多義性を廃し、一義性のみを求めようとすることは、クライエントを理解しようとする営みとは正反対のことであるとしか思えない。それは、クライエントの心の世界に、はっきりとした輪郭で無遠慮に境界線を引き、境界の内部を単色で塗りつぶし、陰影のない、のっぺりとした世界にしてしまうことなのではないだろうか。(右)

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