雑記帳29:祈り
祖母は毎朝、部落の中にあるお地蔵様に、手を合わせにいっていた。実家の敷地には、あちこちに小さな神様が祀られていたし、祖母は孫の帰りが遅くなると家中の神棚や仏壇に「お灯し」をして無事に帰宅するまでずっと祈っていた。
祖母が念じていたのは、家内安全身体健全だけではなかった。「早くお迎えにきてほしい」とか積年の恨み辛みに関することもあった。それは孫としては耳を塞ぎたいものだったし、叶えてほしくなかった。いっぽう、祖母の具合が悪い時には、庭の隅っこで神様仏様に「どうにか助けてほしい」と祈ってもいた。だから、私にとって祈りは複雑なものだ。
大学で心理学を学んだのも、心に関する仕事を選んだのも、そうした文脈の上にあるということはぼんやり意識していた。そして、心理療法家としてのあり方を考えてきて、再び、この「祈り」ということが意味を持とうとしている。
文献は見つけられないが、土居がカンファレンスか何かで「祈りは効くんだよ」と言っていたというのを目にしたこともある。
ハンセン病患者を目の前にした神谷美恵子の有名な一節。これも「祈り」から発せられたもの、いや、もはや「祈りそのもの」だと思う。
生まれた家には特定の宗派があるけれど、私自身はきちんとした(?)信仰をもっている人間ではない。
そうではなく、もっと日常的な意味で「祈り」というものがあって、ある大切な意味をもっている気がする。だからといって、クライエントの前で「さあ、今から私が祈りますよ」と言ったところで、「むむ」と祈ってみせたところで、意味はない。むしろ滑稽だ。クライエントを傷つけるかもしれない。
「祈り」は、おそらく理論とか技法ではなく、言語とか概念でもなく、「する−される」とか「してあげる−してもらう」という次元も超えていて、もっと内発的で、滲み出てくるようなものなのだろう。外側から持ち込まれたものではない。だから、意味をもつのだろうという気がする。
心理臨床において、そのことはもっと考えられていいと思うのだがどうだろうか。(W)
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