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雑記帳32:ある種のフィールド(心理臨床セミナー雑感)

 本年度第3回の心理臨床セミナー(2023.10.29.)が行われた。
 午前は「クライエントとセラピストが『フィールド』の中にいるということ 〜個別性を尊重し創発する営みとしての心理療法を再起動する試み〜」というタイトルのレクチャーであった。講師は神戸松蔭女子学院大学の小松貴弘先生であった。

 講師は対人関係精神分析におけるフィールド理論を意識しつつも、その話は単純な概念の紹介(借り物の言葉)ではなく、講師の個別性に富んだ語りであった。また、そのフィールドでは、心理療法家が身体をまるごと参画させることが重要で、そこから紡ぎ出される言葉だからこそ、かけがえがなく、生きることの創発へとつながると語られたが、もはやその語り自体が、講師自身が自らの身体を、まるでバイオリンなりチェロなりがボディ全体を使って音を響かせるかのようであった。その時間、講師は本当にそのようにして「声」を発しているようだった。(事実、講師はレクチャー後、ふらふらになっていた。)
 話が進むにつれ、ジェンドリン、國分功一郎(哲学者)、長田弘(詩人)、藤井聡太と、さまざまなパートが組み合わされ、一つの交響曲が生まれてくるようだった。その中には、「侵害」「暴力」といった耳に刺さる音もあった:それは、私たちが多くの人にとって正しいからという理由で行っている関与はクライエントのまるごと性に対する「暴力」であり、創発的な取り組みに対する「侵害」ではないかという問いかけであった。それらが耳に突き刺さるのは、他人事ではないからだ。(やがて聞いている私もふらふらしてきたのだった。)
 何にせよ、そのフィールドに「いる」ということは、「身を投げ出す」「身を預ける」というほどの参画であることが、身を以てわかった気がする。
 
 余韻として残ったのは、「聞くことが何の役に立つのか」というありがちな(?)疑問、あるいは「聞くことはもうやっています」というありがちな(?)誤解に対して、聞くと言うことを、もっと誠実に、大切に育てなければならないということだ。それが、疑問や誤解に対するもっとも重要なレスポンスであろう。
 
 午後は、スクールカウンセラーの方の事例検討であった。
 事例から私が考えたことは、フィールドはまず、二人にとっての「守り」であろうということだった。したがって、そうなるように意図をもって場をしつらえていくことが、二人の磁場を守り、育むことにつながるであろう。しかし、それとは別に、フィールドには意図を超えているという性格もある。つまり、気づいていなくても、もうすでに二人の場で大切な何かが起こっているということだ。それが何であるかは、そこに身を置き、もがくように、まさぐるようにして、そして二人で一緒に、考えていくしかないだろう。そしてそれらフィールドのいろいろは、時として役割や構造に挑むように立ち上がってくるのかもしれない。心理療法家の誠実さがもろに問われるところだろう。少なくとも、それを「行動化」と名付けたところで意味はない。
 事例検討そのものが一つのフィールドになった。事例提供者に感謝したい。(W)

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