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雑記帳30:ムーブ

 河合隼雄は、いくつかのところで「ムーブ」について述べている。文献によっては「動き」「動機」という言葉で語られることもある。それらはきわめて重要な心理臨床の柱である。

 どれだけ正確に伝わったかということが問題になるのではなく、どれほど相手にとって意味のある動き(ムーブ)を生ぜしめたか、ということが焦点になってくる。

(河合隼雄「とりかへばや、男と女」新潮選書)

 河合はまた、井上ひさしの演劇をみて、次のように述べる。

 井上さんからわれわれが受けとめたものは、知識ではなく心の揺れである。
 つまり井上さんの話から、私の心の中に「動き」が誘発されるのである。

(河合隼雄「しあわせ眼鏡」海鳴社)

 河合によると、大切なのは何を伝達したか(知識・情報)ではなく、どう伝達したか、そしてそれがどのような波紋となり、相手の心に「揺れ」が生まれたか、なのだ。
 
 さらに河合は、ムーブの体験は千差万別であり、予測してかかることはできないという。

 内的に生じた動機(ムーヴ)は、相手に伝わる時、そのまま伝わることはないであろう。というのは、それぞれの人が個性をもつので、個性による差が生じるのは当然だからである。しかし、一人の人の心に生じた重要な動機(ムーヴ)が、他に伝わる時、伝えられた人は自分の中で、それを意味あるものとして捉え、それを未来へとつなげていくであろう。それは、その人のその後の生き方に影響を与えるはずである。

(河合隼雄「心理療法序説」岩波書店)

 それは前もって想定することはできない。計画も意図も有効とは言えない。それは関係の中に埋め込まれているので、相互なやり取りの中で少しずつ個別的な意味が立ち上がってくるしかない。
 
 今更と思われるかもしれないが、いや、むしろ今こそ、心理臨床がコミュニケーションであるということを強く問い直さねばならない。特に、コミュニケーションは何を伝達したかという一方向の行為ではなく、特定の二人によって生み出される「やりとり」であり「運動」であり、それが「創造」を呼ぶものだということは、繰り返し確認しなければならないだろう。 



 さて、「ムーブ」の震源地はどこにあるのだろうか。重要なものの一つは、心理臨床家の「受信力」であろう。

 このところずっと強調されてきたことは、まず「発信する」ということの大事さです。
 けれども発信することの大事さが強調されればされるほど、逆に、いつかすっかり衰えてきているように思えるのが、「受信する」ちからです。
 他者の存在というものを、自分から受けとめることのできる確かな受信力が、ずいぶん落ちてしまっているのではないか。

(長田 弘「なつかしい時間」岩波新書)

 投げられたボールを受けとめるなら、必ずこちらに振動や衝撃が起こる。その振動や衝撃が確かなものものであるなら、それは波紋となって、二人がいる「場」を走り、相手に届く。これが二人の場に生じる「動き」の原初であろう。どれほど受信に力を注げるのかが、私たちに問われていると言える。
 
 (このたとえからもわかるように)もう一つ重要なのは、心理臨床家の非言語あるいは身体を含んだ関与である。  
 Verbal(言語内容)よりもvocal(語調)を重視したのはサリヴァンだが、vocalの母胎は話し手の声帯の運動なのであり、それは相手の鼓膜に振動を起こしていくのだ。「ムーブ」は、身体を住処とする。すると、どれほど「身を以て」参画できているかが問われることになる。(W)
 

付記:「ムーブ」とどこかに書かれていたはずだけれど、、、と尋ねたところ、丁寧に調べて「しあわせ眼鏡」「心理療法序説」にあると教えてくれた同僚のK先生にお礼を申しあげます。


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