緘黙が大人になったときの弊害

日々いろんなことで悩みまくっている三十路女、pezicoです。今日は会話に対するコンプレックスについて書きたいと思う。

私は中学生まで、家では普通に会話できるのに、学校ではほとんど言葉を発することができない子どもだった。どうしてそうなったのかは覚えていない。気づいたら、完全に「しゃべらない不思議キャラ」になっていた。

小学生の頃が一番ひどくて、中学、高校と成長するにつれ、徐々に改善されていった感じだ。つい最近知ったことだが、このように特定の場面で話すことができない症状を「場面緘黙症」というらしい。

そんな「かんもく生活」の中でも、班ごとに机をくっつける給食の時間はキツかった。ひとことも発することなく、みんなの会話に適度に愛想笑いしながら食べる。休み時間もすることがないので、教科書を机の上に出したり入れたりしながら過ごす…。友達は1人いたけれど、「友達の席へ喋りに行く」という行為ができるようになったのは、中学に上がってからだった。言葉だけじゃなく、行動にも緊張を伴うからだ。

そんな私も大人になって、人と普通に会話できるようになった(と思っていた)。
しかし、社会人になってから、会話する上でどうしても分からない謎が出現した。

それは、「会話に入るタイミング」だ。大学生時代はあまり気づかなかったことだ。

仕事中、突発的に発生する雑談。それが1対1の会話なら全然できるのだけれど、3人以上になると途端に難しくなる。

特に私の場合、一度に複数のことを同時にできない性格なので、「雑談に参加するぞ!」と意気込まないと、会話の内容も耳に入ってこない。まれに雑談に加わっても、パソコン画面を見ながら会話していると、無意識にフェイドアウトしていることもある。

最近は忙しかったこともあって、横で繰り広げられる雑談を完全スルーしていた。そしたらスルー癖がついて、余裕があるときでさえ、ますます会話に入れなくなってしまったのだ。これではいけないと思い、久しぶりに言葉を発してみたのだが「珍しくpezicoさんも!」と言われてしまった。これは…やってしまっている…。

しかし幸いながら、職場の人はみんな良い人なのでそれで嫌われるとかは無いのだけれど、自分だけ職場の雰囲気を良くする努力を怠ってる感じがして、申し訳なく…。

「会話に入るタイミング」は教科書にも載ってないし、誰も教えてくれないのに、世間ではちゃんと習得している人が多くて、なぜなんだ?!って。

でも、今だよ!って合図してくれる優しい人もたまにいる。「pezicoさんも〇〇だよね」とか、名前を入れてくれる。自分も会話を楽しんで、かつ蚊帳の外人間にも気を遣えるなんて、すごすぎる。

人数という観点からすると、「会話に入るタイミング」は3人が一番難しい気がする。4人なら、言葉を発する人と受ける人、入る人が私以外に1人いて、私は入る人の真似をすればいいから。3人だと、この話は2人でしたい話なのか、自分も入っていい会話なのか、判断が難しい。

しっかり年をとっているのに、こんなことで日々悩んでいるなんて。

これは私の推察なのだけれど、コミュニケーション能力を形成する大事な時期に、場面緘黙症をこじらせたために、必要な能力を習得できないまま大人になってしまったんじゃないだろうか。(あくまで私の場合)
だからといって努力を怠っていいわけじゃないけれど…。

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