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ギルト

rとiとは幼なじみだった。姉妹のように仲が良かった。高校2年の夏、rが不意に学校を中退して蒸発した。上京してガールズバーで働いていると風が噂した。ちょうど同じクラスのsとiが付き合っているらしいというニュースが学校中を駆け巡った直後だったので、三角関係がもつれ、永遠と思えた友情にもついに亀裂が生じたんじゃないかと誰かがまことしやかに囁いた。s君カッコいいもんね、二股かけていたらしいよ? いや実はiちゃんが横取りしたんだって! そんな尾ヒレをiは放心したように受け入れていたという。
そして賑やかな学生生活も疾うに過ぎ去り、みんなが昔話としてそれを花と咲かせていたある年の同窓会に、sがiとの婚約を発表した。おめでとう!やっぱりね!お似合いだと思ってた!
明日はその結婚式の日——

雨が降っている。iは前乗りした披露宴会場付きの高層ホテルの窓辺のソファにもたれかかり、眼下に濡れる街を眺めている。人が六月の花嫁を奉るのは、きっとどんな気迷いもそれを雨のせいにしてしまえるからだろう。たとえばこのiの場合もそう。今頃どうしているだろうか? もう会えないのかな? あの日からずっと、時が止まったように、そんなことばっかりを考えているような気になる。あぁあ、 明日は朝からずっと寝てたいなぁ。またバカみたいなことを思う。色とりどりの傘のうちのひとつの下で、足早にこちらへと向かって来る人影がありやしないだろうかと空想する。もしもそうならば、きっと私は、その傘をひとめ見るだけでそうと判るだろう。それはあなただとひとめで判る。あなたと私の仲じゃない。だけどそれで? それでどうなるというのだろう? 後悔があった。いや、違う、決めたじゃない。後悔なんてあるわけがない。ただ祝福してほしいだけ。本当に? それならば、それなのに? どうして、明日が来てしまえば、どこに居たって自分はついに独りなのだ、だなんて、どうしてそんなふうに考えてしまうの?

遠く離れた場所で、rもまたずっと考えていた。もしもあのとき私たちが相思相愛だったとしたなら。だけどどうしたってそんなのきっとうまくいきっこなかったはず。それに私自身、そういう感情にどう折り合いをつけてよいのかわからなかったし、だから自分で自分を突き離してしまったんだ。自分に吐き気しかしなかった。突如自分に芽生えた(蝕んだと言ってもいい)、おぞましい見知らぬ感情が、自分もiをも汚してしまうように思えた。どうしていいかわからなかった。いまもわからない。ともあれ結局、とうとうこうなってみると(iがsのプロポーズを受けたという話をほぼリアルタイムで知り得るほどに、rはまだ、iとの繋がりをひそかに求めていた)、それが本当の意味で二人のためであったんだ。よかった。そういうふうにrはどこかで安堵の気持ちすらおぼえていた。あんなに自己嫌悪に陥って、あげく逃げ出して、そのために思いもよらず呼び覚ましてしまったらしい穢らわしい憶測のぜんぶを、ひとりiのせいにしていいはずがない。iが私に気兼ねする必要もない。iには幸せになってほしかった。

大丈夫だよ。rは呟いた。わかりゃしないよ。大丈夫、届くわけないし。だけど、どれだけ自分の役割を理解して果たそうとしても、届いてしまっては途方に暮れそうなこの本音の歌だけはどうにも変えられないようなのだった。ならばこれは、背負い込んで償い続けなければならない罪悪に違いない。

そうやってやり過ごす心算だった。ところがどうだろう? 雨が降っていたからだろうか? ほんとうにそれでいいの? このままいつまで経っても、誰にも知られることなく、もはや何の意味もなくなってしまう思いを誠実さと偽って守り続けて、ほんとうにそれで、...そんなふうな堂々巡りが幾夜も続くうちに、rはいつしかいてもたってもいられなくなってしまったのだった。

ほらね? 言った通りでしょう? iにはすぐに判った。式の当日の朝、受付を引き受けてくれた友人たちとのさいごの挨拶や確認のためにロビーに降りたときに、ちょうどガラス張りの向こうを早足で通り過ぎる人影をみた。傘をこちら側に差しかけて、肩から上はみえない。だけどiにはすぐにそれがrだと判った。何年ぶりだろう。rはぐるりと披露宴会場の前庭をエントランスのほうへまわって、回転扉の前で傘を畳み、ドアボーイが手を差し出すのに任せて立ち凌ぎ、彼から傘立ての番号キーを受け取ると、それを無造作にスプリングコートのポケットへ放り込んだ。髪をかきあげる。そうして意を決したように一歩踏み出し、と、同時にiも階段を駆け下りる。ほらね? rだ。どうしてとかどうやってとかどうしていたのとか、そういうのもいい。判るから。

会場へ向かっている間、rはずっと昔のことを思い出していた。ずっと昔、まだ小学校に上がる前ほどの記憶だ。その頃からrとiとは一緒だった。ずっと一緒にいようねって約束した。ああいう無邪気な気持ちでずっといられたら——
思いを巡らせるままにぐるりとまわってエントランスを抜け、ふと目をあげると不意に目の前にiがいる。なんで? 虚をつかれてしまった。どこか遠くで一瞬だけでもその笑顔を目に焼き付けておきたいと考えていたのだった。
馬鹿みたいに呆気なく涙が溢れた。ずっと会いたかった。ずっと一緒にいたかった。どこでどう踏み誤り、それをいやらしい罪悪のように取り違えてしまったのだろう? ねぇ? この感情は罪なの?
iはただ静かに駆け寄って、rを優しく抱き締めると、ないしょ話をするみたいに額を押し当てて囁いた。もう泣かないでいいよ。rは戦慄した。あぁ、もしかして、もしかしてiは、、、

空想の続きがお互いの脳裏を交錯するように横切る。それはrには次のようなヴィジョンとなって顕れた。

iはどこかの窓辺にいて、雨の降る街を見下ろしている。そして物憂く無意識の裡にrを探している。いま抜け出したならどこかでまた会えたりしないかなどと考えている。

そんな、、、rは愕然とする。いやこれもいままで何度となく抱いてきた淡い空想のひとつに過ぎない。それでも全身の力が抜ける。立っていられない。

iもまた、rのことをずっと思っていたのだった。

ひとりで生きていくって決心しに来たのに。iの幸せそうな笑顔がそこにあれば後悔などあろうはずもなかったのに。

rはすんでのところで気を持ち直した。それから真っ直ぐとiの目を見た。大丈夫だというようにちいさく頷く。大丈夫、いま考えてること、きっと誰にもわかんないよ。だからお互いの気持ちになんて気づかなかったふりをしよう。そうしてiは幸せになるんだ。それがたとえ全部嘘であっても幸せは幸せだ。...わかってる。どれだけ自分を騙したってそれじゃ救われない。だけどそれは全部引き受けるから。何もかもを救いとることはできない。それが人生の大部分を占めていてもあきらめなければならないものもある。その上で、幸せとはやはり綺麗事だとしても、それは確かにあるし、それを求める流れのなかに私たちはいる。何かがrのなかで立ち上がったようなのだった。幸せになること。救われなさを抱えながら。今度は私に償わせてよ。ねぇi、わかった? それでいいって頷いて。

そこまで目で語って、rは大きく息をした。それから今度は、声に出して、iにだけ届くやさしい囁きで、正直な自分の気持ちを伝えた。

不意にいなくなってごめんなさい。iには自分は不似合いだと思ってしまったの。それで逃げ出した。一度自分を消し去りたかった。そうしてどこかで生き直そうと思ったけれど、どこへ行っても、誰といても、出会えていないと感じてしまう。当然よね。わかり切ってた。私が出会うと言うとき、それはiを於いてほかにいなかったのに。自分の気持ちを隠したってそんなの無意味だったのにね。それでもどうしても認められなかった。そう認めてしまうことは美しい思い出に対する冒涜のように思えてしまったの。しまいにはその思い出さえうとましく感じてしまったこともある。もういいよ、一人でいさせてよ! 何もかもなかったことにしたいんだ! あのね、i? ずっと考えていたんだ。こんなことって、本当にあるんだなぁって、呆れてしまうかもしれないけれど、でもやっぱりそうなのかも。もしかして自分は、iのことを、あなたを愛しているのかもしれないって。

真摯なrの視線からふっと目を反らせて、iはガラス張りの向こうの空をみた。音も無く雨が降り続いている。どうして? 今さらぜんぶ意味ないなぁ。それはたぶん、rも自ずから切実に感じていることなのだった。それがiには痛々しいほどによく判った。そうなのだ。iにはさいしょからぜんぶ判っていたのかもしれない。だとしたら今さらという言葉は自分で自分に向けて放ったようなのだった。そうして結局のところ、iがそれと知りながら流れのなかで、全てを無に帰してしまったも同じなのだった。
「ねぇ? もう一回聴かせて」
iは美しい微笑みを湛えてrを促した。ほら、ちいさい頃に約束したじゃない? ずっと一緒にいるって。原風景のような、最初のその言葉を、rの声を聴きたかった。離れていても、ずっと一緒だったよ? そうして、ずっと独りだった。本当はrのことを望んでいた。判ってたのにね。感情の密やかなうねりにふたりは身を委ねた。ずっとそれに浸っていたかったが、それは音楽のように、万物を押し流し、ひとところにとどまることを許さなかった。けれども、...そこに確かに相思相愛があった。離れていても、ずっとあったんだ。私はそれを今から本当の意味で手離すんだね。

それは違うというふうにrはかすかに首を横に振った。そうじゃない。今こうしてiの笑顔を見れたことで、自分はやっと向き合うことができたんだよ。認めることも。iから離れたことも無意味じゃなかったし、それは自分なりの誠実さだったのだと許せる。これら全てが自分の気持ちに(そしてiの気持ちにも)、真剣に対峙したその帰結なんだ。

なにもかも受け入れるよ。

長い道程の果てにようやく、整理がついたみたいだ。やっと言えたんだ。本当の気持ちも、ずっとそれを知ってほしかったことも。それにはこの道順を、地にまみれて懸命に歩んでくるより他、仕方がなかった。代償は余りにも大きい。この先ずっと過ちと共に、...それとももっと多くを求め合えと?

わかってるよ

その先を、望んでいるわけじゃない。iもきっと、そうだね? rは窘めるようにやっと笑みをこぼしてもう一度頷く。あぁ、思い出すね。iのことが本当に愛おしい。それを伝えに来た。それだけだよ? ただ、ひとめ会って、もう一度、その笑顔を見せてほしかっただけ。

思いがけない旧友との邂逅に、その祝福に、早くも感極まり、涙ながらに睦み合う二人の様子に、誰もがわずかなりとも訝りもせずに、暖かい視線のシャワーを浴びせかけていた。


※これはティースウィートさんという方の同名の曲をYouTubeで聴いて膨らました空想を書き止めたものです。それは素晴らしい曲です。

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