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Moments Musicaux N°2

バルトークの2台のピアノと打楽器のためのソナタ

ラベック姉妹etc...


 開放的な青空を感じる。乾いた風が吹いているかもしれない。ヴェーグSQの演奏するバルトークの弦楽四重奏曲を第1番から順番に聴いて、そのあとに、第5番(1934)と最後の第6番(1939)の間の時期に当たる1937年に作曲されたこの作品を続けて聴いた。鋭利な情念の塊を叩きつけるように脈打つ弦楽の調べにくらべて、あつくもつめたくもなく飄々(ひょうひょう)としたたたずまいで、ひとつひとつ、無言で音を置いてゆくような様子が、かえって慈悲の欠如をあらわしているようでもある。それでいて、ほのかなぬくもりの温度をそっと維持している横顔もある。
 ピアノ2台に打楽器、というこのめづらしい取り合わせは、後年ダリウス・ミヨーが採用したことがあるが、それも、弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽(1936)の翌年に続けて打楽器を注視したこれを作曲したバルトークへのオマージュであろう。
 そもそも、バルトークのピアノのエクリチュールそのものが打楽器的であることはよく言われている。この曲も、協奏的であるよりも、ピアノと打楽器と、混然一体となって点描を形作るように書かれていることがうかがえるが、結果的には、ピアノの気品と、打楽器群の躍動感が相互に聴き手と等間隔で過不足なく表現されている、といった風合いかと思われる。おそらく、我々はピアノの音色に親しみすぎているから。
 バルトークの弦楽四重奏曲を通しで聴いたのは、何かしら、暴力的な力に押し流されそうな、押し流されてしまえというような、そういう鬱屈を心が抱えていたからだと思われる。弦の響きは、そういった心根を容赦なくうねり、慰撫してくれたが、なにかひとつ、次へ行けなそうなところで、この曲がぴったりとフィットした。第3楽章冒頭の、掛値のない唐突なポジティビティはどうだろう。ベートーヴェンやブルックナーの開始のよう、天体をも動かしかねない力量と同居する軽み。ここにいたると、打楽器群の多彩さにピアノは多面的な基調と疾走を添えるかのようだ。
 ほら、いつのまにか、日が暮れている。いとも容易く、全ては移ろう。
 この作品には、脱稿直後に本人によってなされた“協奏曲”版も存在する(1940)。“弦チェレ”と並べて聴くには、こちらのヴァージョンのほうが均衡がとれそうだ。

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