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クモになった少女

蜘蛛になった少女と
彼女のもとを訪れた老婆の昔話。

エーゲ海の東方、小アジアは
リディアのとある寒村に
機織り上手の娘がいた。
彼女の名は、アラクネ。
出来上がった織物はもちろん
それを仕上げていく鮮やかな手つきに
感嘆しない人はいなかった。

羊毛を一掴み、手のひらで丸めて毬をつくり、
ふわふわとした毛を揉んで整えては、
少しずつ繊維を撚って引きのばす。
糸はしだいに細く、長く、つやつやと
紡錘に巻きとられていく。

得意な仕事を一心にこなす少女自身が
一枚の絵、一幅のタピストリー。

そんな彼女を見ようと
近在の村からも、少し離れた町からも、
老いも若きも、寒村の工房にやってくる。
人間ばかりか、山麓のブドウ園を護るニンフや
村を流れるせせらぎに住む水の精まで。

とても人の技とは思えない、
これほどの技を授けることができるのは技芸と知恵の女神、
あのミネルヴァさま=アテナさまをおいて他にあるまい……
人々は皆、互いに言い合った。

「いいえ、女神なんて関係ないわ。
すべては、私が、自分ひとりで
身につけた技術(すべ)。」

            📜

蔑ろにされた女神は、
少女の仕事場へ足を運ぶ。
ほつれた白髪が額にかかり
杖なくては足元もおぼつかない
老婆の姿で。

老女は静かに少女を諭した。
「年を取れば
あちこち体も弱くなる。けれど
齢を重ねるのも悪くはない。
長いあいだ見聞きしたことが
積もり積もって知恵になる。

娘さん、あなたの技がどれほど勝れていようと、
どこまでいっても、それは人の技、
神々と比べられるものではありません。

女神にお謝りなさい。こころから詫びれば
女神はきっと許してくださいますよ。」

「そんなに老いぼれているくせに、
よくもまあ、ここまで来られたものね。
あなたには嫁も娘もいないの? ご託なら
家の女たち相手に並べてちょうだい。
それに、ご自分に自信がおありなら、
女神さまご自身がここへいらっしゃればいいのよ。
この私と、腕比べに。」

「もう、来ていますよ。」
老婆の姿を措いて神威を顕した女神に
まわりは平伏するが、アラクネは怯まない。
わずかに両の頬に、一瞬の曙光のように
紅が一すじ走っただけ……。

            📜

女神と娘は
その場に機を立て
織り仕事にかかる。

不死の女神も死すべき人間も
機に向かえば等し並みに機織る女性、
所作も機の動きも寸分違わぬ
主語は、一語「彼女たち」。

緩やかな衣服の襞が
仕事の邪魔にならぬよう
胸の辺りを帯で押さえ、
疲れなんかものともせず、左に右に
腕(かいな)もあらわに杼を操り
彩り豊かな緯糸が巧みに経糸を潜るたび
打ち下ろされる筬(おさ)。

その律動が生む光の諧調は、
女神と少女、それぞれの物語を織り上げる。
女神が語るのは、驕慢な人間たちのあわれな末路、
少女が描くのは、神々の無謀な行為、愚かしい恋。

完成した作品は、
いづれ甲乙つけがたい。
誰の目から見ても、
―― 女神自身の目から見ても。

            📜

織り上げたばかりの作品をまえに
少女は、達成感にあふれ、誇らかに
ライヴァルを見つめていたのだろうか。
女神は、手にした柘植の杼で、
少女の織物を裂き、
幼い作者を打擲した。

死すべきものの 驕慢(ヒュブリス)を懲らし
覆された秩序を回復するのは神々の正義。
とはいえ、少女は
からだに受けた傷の痛みと
誇りを打ち砕かれた
こころの痛みに耐えきれず
機のかたわらで溢死を試みた。

織物上手の幼い者を
女神はふびんに思い
彼女の最後の矜持、織りの技を
子々孫々につないでいけるよう、
新たな生を授ける。

アラクネの仕事場を去る前に
女神が振りかけた小瓶の薬液は
少女を一匹のクモに変えた。

少女の名は
網から垂れる糸にすがり風に揺れる
小さな生き物を指す一語となって
古代ギリシャ語の辞書にいまも
その響きを留める ―― 'Αρáχνη(Arachné)。

            📜

老婆となって現れた知恵の女神が
不遜なライヴァルに溌溂と対峙したように、
内なる思いが強く激しく
おのが存在を突き動かすとき、
老いは突如として
若さに座を譲るのだろうか……。

            📜

春まだ来の”ねこじゃら荘”で
避寒中のアラクネたちが
光零れる網を織る。

ピンクのノートパソコンを
機のように開いて、子猫も
機りに精を出そう。なおも
不器用な綴れを織り続けようと。

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