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こころよ

遠い日の
秋の午後だった。

古いピアノに向かって
バッハの断章を復習(さら)えていた。
フランス組曲第二番 BWV 813
第三曲 Sarabande サラバンド

指先が幾度となく織り直す
旋律の深奥に(あるいは基底に)
突然感じた沈黙
音は、確かに鳴り続けているのに…...。

たった一度
そんなことがあった。
未だ再び享受することのない
不思議の一刹那。

            🍂

いま
あたりには
さんざめく”平和”

脈絡を失い漂う音、音。
木っ端となって乱れ散る言葉の
かしましく錯綜する原色は
蒼ざめた電子の光にのって
四方に拡散する。

情報の波は
硬質の数列をつらねて
<知>を押し流し
思考を停止させ―—

権力(ちから)ある者たちの
響きわたる怒号に腹黒い囁きに
都市(まち)も村も廃墟となり果て
死者たちは名まえを失って
一塊の数字と化す。

こころよ、猫たちの
   慟哭するこころよ!

            🍂

ねこじゃら荘の丈高い本箱は
大きな地震でも倒れなかった。
扉は開きにくくなったけれど
大切な書物をしまっておく特別な場所。

なかに瀟洒な一冊、
白い表紙カヴァーに書名の文字と帯は、青。
1960年代半ばに
みすず書房が上梓した(原著は1948年刊)

   『沈黙の世界』
   マックス・ピカート著、佐野利勝 訳。

巻頭の献辞を記したページの裏面に
掲げられた本書の銘は―—

LINGUA FUNDAMENTUM
  SANCTI SILENTI
 言葉は聖なる沈黙にもとづく

       マリア・クルム寺院祭壇の銘
          ゲーテの日記より

マリア・クルム寺院
Maria Kulm Pilgrimage Church(マリア・クルム巡礼教会)は、
ボヘミア地方の小さな村、マリア・クルムに現存する。

この地を訪れたドイツの文豪が日記に書き写し
およそ百年を経て、二十世紀の思索家が自著の銘とした
リレーのバトンのようなラテン語文。
この一文に守護(まも)られて

こころよ

目を閉じて
せめて猫らしく
お香盒をつくり
ほんのひととき
静謐のうちに
祈れ

マリア・クルム巡礼教会  遠景

DONA NOBIS PACEM
われらに平和を与えたまえ、と。

   
                 


               ※ 表題画像は、バンクシー描くガザのネコ
                   (Franceinfo の webページより)