【MPP授業感想】Politics②ほか

同級生の経験を聞いて

同級生が自らのライフストーリーを語るという企画が今週からスタートした(現在所属しているプログラムでは、生徒主導で様々なイベントが企画されている)。初回で話してくれたアメリカ人の女性の経験がとても考えさせられるものだったので、ここで感想も含めて記しておきたい。

彼女はアメリカ・ポートランドの高校で発生した銃乱射事件の生存者だ。そして、この事件をきっかけとしてアメリカの銃暴力に対する抗議を行っている活動家でもある。彼女は、数十万人が参加したとされるデモを主催するなど、これまでのドラマティックな人生(しかも、彼女は昨年大学を卒業したばかりとのこと!)について語ってくれたが、最も印象に残ったのは、むしろ彼女の内面的な部分についての省察だった。

彼女は、活動家としてのキャリアを重ねるにつれて、突如自分の身に起こった出来事、すなわち銃乱射事件によって、自分が生きる意味を決められてしまっていいのかと感じるようになったという。また、活動家として、成果を挙げられなかった場合に自分が責任を問われるという重圧にも苦しむようになったという。世間で有名になり、憧れの芸能人にも会えた反面、学業を続けながら、活動家としての膨大なタスクに対応し、結果を出さなければならないという現実。

しかしながら、彼女は従来行ってきた銃暴力に関する活動だけでなく、他の分野の活動に参加していくことで、銃暴力のみならず、貧困、ジェンダーなど、社会に存在する不条理と戦っていくことが、自分のミッションであると納得することができたとのことだった。

昨今、若い活動家が取り上げられ、社会変革に大きな影響を与えることが増えているように思う。私が彼女の話を聞いていて感じたのは、当たり前だが、そうした若手活動家も一人の若者であるということである。将来に悩み、重圧に苦しんでいる。一方で大人は、立場や状況に応じて、容赦なく彼らを潰そうとしたり、或いは彼らを担ぎ上げて利用したりする。しかし、彼女の等身大の苦しみや悩みを聞いていると、やはりこうした立ち振る舞いは無責任ではないかと強く感じる。若者が持つ力強さ、これは社会の変化に欠かすことのできない要素であるが、同時に、責任を取るであるとか、若者を守るであるとか、大人が果たすべき役割があるはずだ。大人が役割を投げ出し、ずる賢く立ち回っているようでは、出る杭は打たれ、諦念に満ちた希望のない社会へと向かってしまうだろう(日本はもはやそうなっている気もするが)。

自分が若者とはいえないような年齢に近づく中で、大人としての若者へのあるべき立ち振る舞いを意識していかねばと感じた。

The Politics of Policymaking (week2)

今週のテーマは民主主義と専制政治。自分が大学生だった頃は世界は民主主義へと向かっていくという希望に満ちた説明が支配的だったように思うが、昨今の状況も踏まえ、果たして本当に民主主義は望ましい制度であるのかを問うていく、極めてリアリスティックな講義であった。

まず印象的だったのは、民主主義国家は近年減少しており、民主主義と専制政治の要素を組み合わせたハイブリッド国家が増加しているという事実だ。報道ではアメリカや欧州での民主主義の後退が強調されがちであるが、アフリカなどその他の地域においても、着実に後退が進んでいるということだった。

それでは我々はどうすればよいのか。「民主主義は制度であり、何らアウトカムを保証していない。」「そもそもなぜ民主主義を守りたいのかを考える必要がある。」教授陣のこうした言葉は、民主主義を盲目的に崇拝していた一昔前の潮流が終わったことを示しているように思う。実際、権威主義的なシンガポールは国家運営という意味では他の民主主義国家よりも成果を挙げているように思うし、政治が停滞している民主主義国家は枚挙にいとまがない。民主主義は信じるに値するのか。

人間の幸福は物質的な幸福と精神的な幸福に分類される。民主主義と専制主義の顕著な違いは、人々に精神的な幸福をもたらすことができるかにある。その意味で確かに民主主義に揺るがない価値はある。しかし注意しなければならないのは、一般的に、精神的な幸福は、物質的な幸福がもたらされた状態で初めて追求できるものであるということだ。例えば、食事に困っている人々は、(よっぽどの変わり者でない限り、そして精神的な幸福の実現が物質的な幸福の実現にリンクしていないという前提のものでは、)表現の自由や言論の自由以前に、不自由なく食事ができることを求めるはずだ。

民主主義国家は、人々に物質的な幸福を与えることができないならば、専制主義国家やハイブリット国家に変容していくのではないかというのが自分の意見だ。民主主義が持つ内在的な価値は素晴らしいものだが、それ以前に人々は生活していかなければならない。戦前の日本においても、経済・安全保障の観点で高いパフォーマンスを発揮できなかった政党政治は、民衆から見捨てられ、結果的に軍部の台頭を招いた。民衆が進んで民主的なレジームを否定するというのは、なんとも皮肉な現実だ。

詰まるところ、民主主義の規範的な望ましさだけではなく、その機能や成果にも着目し、いかに持続可能な形で民主主義を維持できるのかを考えていくことが重要だと思う。いかに人権を尊重する国家であっても、経済的な成長が全く見込めなければ、民衆は納得しない。物質的な幸福をもたらし続けながら、精神的な幸福を最大限保証していく。この方向性を目指していくべきだと思う。

民主主義とポピュリズムの関係性についても一言述べておきたい。民主主義は元来個人の利益を集約・調整していく機能を有していたはずだが、昨今は地域や職場といった集団の影響力が低下していく中で、そうした機能が低下し、個人の利益を丸裸のまま集めて多数決で物事を決めるような状況に近づいているように思う。この民主主義における利益集約・調整機能の低下が、民主主義による政策立案のパフォーマンス低下につながり、ひいては人々の不満を機敏に捉えるポピュリストの出現を招いているのではないか。民主主義の危機をテーマとしたパネルディスカッションにおいても、オフィシャルな制度外における人々の政治へのコミットメントの強化が重要との意見があった。こうした集団レベルでの利益集約・調整を機能させることが、ポピュリズムなどの民主主義に対する脅威への強靭性を高めることになるのだと思う。

この点、日本は危機的な状況だ。政治への関心は若者を中心に他の国と比べて非常に低く、上記で述べたような政治的な活動も低調だ。今後例えば国家的な経済危機に陥った場合に、集団から個人への分裂が著しい環境のもとで、ポピュリスト或いは民主主義国家を否定する勢力の台頭を避けられるのか、憂慮せざるを得ない。人口動態の変化に伴い、シルバー民主主義が進行していることも踏まえると、若者による政治に対する意識の向上、集団レベルでの活動は、日本の将来を考えると非常に重要になってくるように思う。どのような括りで利益を集約・調整していくことになるのか、正直よく分からないが、SNSは大きな役割を果たすことができるだろう。



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