煎じ詰めれば唯の浪漫野郎

ペシミズムやニヒリズムに傾倒しているからか、タイトルに惹かれ北村透谷の「厭世詩家と女性」という小説を買って読んでみた。

先ず、北村透谷とは明治期に活躍した浪漫主義に代表される詩人で、懊悩し続け1894年に25歳で自殺した人。彼の煩悶し苦しむ様子が島崎藤村の「桜の実の熟する時」「春」に描かれているから興味があれば是非読んでみて。

「厭世詩家と女性」のなかに『抑も人間の生涯に思想なる者の発萌し来るより、善美を希ふて醜悪を忌むは自然の理なり、而して世に熟せず、世の奥に貫かぬ心には、人世の不調子不都合を見初むる時に、初理想の甚だ齟齬せるを感じ、実世界の風物何となく人をして惨惻たらしむ。智識と経験とが相敵視し、妄想と実想とが相争戦する少年の頃に、浮世を怪訝し、厭嫌するの情起り易きは至当の理なりと言ふ可し。人生れながらにして義務を知るものならず、人生れながらに徳義を知るものならず、義務も徳義も双対的の者にして、社界を透視したる後、「己れ」を明見したるの後に始めて知り得可き者にして、義務徳義を弁ぜざる純樸なる少年の思想が、始めて複雑解し難き社界の秘奥に接する時に、誰れか能く厭世思想を胎生せざるを得んや。』という一節がある。この一節を読んだ時、悶々とした心の柔い部分を、言語化され知覚されてしまった気がした。

この一節を分かりやすく言い換えると、『そもそも、人が先ず、善美を願い醜悪を嫌うという思想を持つのは当然である。しかし未熟で世の中を知らない子供は、初めて人の世の不条理不都合を知った時、理想との齟齬を感じ現世に嘆き悲しむ。知識と経験が相対し、理想と現実とが相争う年頃の少年が、現世を訝り嫌悪するのは当然のことである。義務と道徳は相対的な物で、これらは社会を知った後「自己」を知覚し、そしてやっと理解できる物である。義務と道徳の区別もつかない純情なる少年が、初めて複雑で理解し難い社会の奥底を知った時、厭世思想が生まれない訳がない。』となるはず。多分。
これを更に要約すると『清く正しく美しい世界を夢見る子供は、義務や倫理、様々なことと折り合いつけなければならない汚い大人の世界を知り、嫌気が差し、厭世思想に逃げる』となると思う。

つまり現世に意味を見出せず、厭世思想に走り、人生を悲観するペシミストとは、元来は清く正しい世界を夢見、性善説を信じ、美しい人の世を願うロマンチストとなる。
なるほどと思った。凄く腑に落ちたし、そう言われると身に覚えもある。
ただ、だからといって現世に希望を持てる訳でも積極的に生きるわけでもなく、かといって安吾みたいに堕落しきるわけでもなく、今後も俺は中途半端に惰性的に人生を歩んでいく気がしてる。ペシミズムとかニヒリズムは逃げなんだろうけど何にも希望を持たず期待もしないって凄く楽。あー厭世思想万歳

ぜんぜん関係ないけど、俺はペシミストだのダダイストだのニヒリストだのシニシストだのデカダンスだの言うけど何かにカテゴライズして安心してたいだけな気がする、、 

あともっと関係ないけど「ロマン」に「浪漫」って当て字考えたの夏目漱石らしいけどセンスありすぎ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?