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『劇場版 荒野に希望の灯をともす』監督・谷津賢二さんインタビュー《前編》

我々と同じで、悲しみも、苦労も、痛みもあれば、喜びも、幸せもある人だったんですね。だから我々と同じ目線で中村先生を見ることが大切かなっていう気がするんです。

中村先生は、掛け値なしに他者のために生きた人

希望とか信頼という言葉に、中村先生は再び命を吹き込んでいるような気がするんです。

中村先生と山の民の間には目には見えない、カメラでは映らない強い結びつきがあるんだなあとすごく感じたんですね。

(この記事に登場する谷津賢二さんの言葉)


2022年、20年以上に渡り撮影した映像素材から医師 中村哲の生き方をたどるドキュメンタリーの完全版、劇場版『荒野に希望の灯をともす』が公開され、多くの反響を呼びました。公開から1年が過ぎても中村哲医師の生き様に共感する声は止まず、全国各地で自主上映会が開催されています。今回は、多くの人々の心に希望の灯をともした映画『荒野に希望の灯をともす』の監督・谷津賢二さんに20年以上に渡る取材から見えてきた中村哲医師の真の姿やアフガニスタンの様子をお伺いしました。長年、中村哲医師の活動を記録されてきた谷津さんから語られる「等身大の中村哲」のお話から、自らの生活を見つめ直す機会になれば幸いです。

※このインタビューは2022年4月に行ったものです。


同じ目線で中村医師を見る

―――私たちは、アフガニスタンの干ばつによる食糧危機や中村先生の本質的な話、現地での活動を継続するための協力が必要だ、と伝えたいです。だけど、やっぱり始めは、親しみを持てるように、何か先生の人柄的なエピソードをお聞きしたいです。

谷津さん ひとことで言うのはちょっと難しいですね。先生は、すごく大きな方だったので。僕自身がすごく魅力を感じていたのは、オンとオフが非常にわかりやすいことだったんですね。どういうことかというと、オンの時は、やっぱりドクターとして患者さんを診療している時とか。用水路で陣頭指揮に立っている時は、目に力があって、口はへの字結ばれて気迫に満ちている。ただ、そういった仕事を離れると、すごく言い方は変なのですが、「とぼけたおっさん」みたいな感じなんですよ。そのギャップがね、ものすごくみんなを惹きつける。中村先生ご自身は自分が偉人としてね、祭り上げられるのは嫌だなって思ってるかもしれないと思うんです。中村先生は息子さんを病気で亡くされてるんですね。そのことを中村先生が著書の中で、心情を書き遺され「空爆と飢餓で犠牲になった子の親たちの気持ちが、いっそう分かるようになった」とおっしゃっています。そして、アフガニスタンで人の命を救うために頑張るぞと決意を固めるんですね。ということは、本当に辛く悲しい経験をされ、一方で、用水路に水を引いたときに、たくさんの方の命が救われるという喜びもある。その悲しみや喜びは我々と同じなんですね。だから決して皆さんに誤解してほしくないのは、雲の上の存在の偉い人で、近寄りがたい人だとは思わないほうがいい。我々と同じで、悲しみも、苦労も、痛みもあれば、喜びも、幸せもある人だったんですね。だから、我々と同じ目線で中村先生を見ることが大切かなっていう気がするんですね。

自らパワーショベルを操作する中村哲医師(提供:日本電波ニュース社)

利他に生きた中村医師

―――谷津さんが取材を通して一番伝えたいことは何か教えていただきたいです。

谷津さん 中村先生の生き方というのは短く説明するのが難しいんですけども、あえてどんな生き方だったのかと問われれば、「利他」の人だったと思うんです。端的に言うと、他者のために生きるということ。その反対はエゴイズム、自分だけのために生きる。今、皆さんが社会を見回しても、自民族ファースト、自国ファースト、そして多分周りには、自分ファーストという人もいるでしょう。でも中村先生は全くその逆で。掛け値なしに他者のために生きた人なんですね。利他、他人のために生きるなんて、そんなことできるんですかと思うかも知れないですよね。一体どんなことが他者のために生きるっていうことなんですか?という疑問もあると思うんです。決して皆さんに僕が誤解してほしくないのは、自分を犠牲にしなさいという訳じゃないこと。中村先生は大きなことを考えなくていいと。道に倒れている人がいたら、「どうしましたか?」と声をかけること。友達がいじめられていたら、庇ってやること。お母さんが風邪をひいて熱があるって言ったら、今日は私がご飯作りますよ、ということも、大切なことだとおっしゃっています。そういう素朴な他者を思いやることが先生の人間観の本質だったと思うんですね。素朴に他者のことを思いやるきっかけを皆さんが考えてくれたらいいなと思います。中村先生の本質はいっぱいあるんですよ。伝えようと思ったらいろんな側面を持っている方なので。残念ながら、今の日本では「希望、信頼」という言葉がないがしろにされていると思います。そんな中で希望とか信頼という言葉に、中村先生は、再び命を吹き込んでいるような気がするんです。他者を信頼して助け合うという社会。すごくシンプルですよね。昔からそういう社会が良いと言われて、なかなか実現できないんだけども、やっぱり我々が目指すべきなのは、お互いが助け合って暮らしていくという社会。それが中村先生の生き様から学べるような気がするんですね。

甦った緑を背にした中村哲医師(提供:日本電波ニュース社)

カメラには映らないものがある

―――谷津さんが中村先生を取材するようになったきっかけを教えていただきたいです。

谷津さん 知ったきっかけは1998年の年明けか、97年暮ぐらいだったか、当時の会社の先輩が中村先生の著作の『ダラエヌールへの道』という本を「面白いよ、すごい先生がいる」と、僕に渡してくれたんですね。僕はそれを読んだ時に、言い方変ですけど、「頭を殴られたようなショック」を受けたんです。いい意味でのショックですね。その時、僕の職能はドキュメンタリーのカメラマンだったので、すぐにこの人を取材してみたいなと思いました。それが中村先生に取材を始めるきっかけですね。98年の6月に、パキスタンとアフガンの国境にあるヒンズークシュ山脈の農村地域での巡回診療に、同行させてもらいました。その時に強烈な印象があって、これからも中村先生の行く末を取材したいと思って気がついたら、21年間経っていました。最初、先生に同行して巡回診療を撮影してる時は、先生は半分寝ているようでね。中年のおっさんが馬に揺られてブラブラと山の中を行くようにしか見えないんですよ(笑)。お金もかけてね、カメラもすごく重くて、ものすごい苦労して、こんなとこまで来て、撮影できるのが、なんか居眠りしそうなおじさんと山並が綺麗なことだけなんです。それが撮れるぐらいで「ドキュメンタリーできるのかなあ」と。目的地の近くに行った時も、誰もいないんですよ。そこで何をするんだろうと思いながら、それでも中村先生が「焦らず待ちましょう」なんて言って、その日は何もなくテントで寝ました。朝、何となく人の気配がするなと思って外に出たら、遠い山の方からですね。どんどん歩いてくるんですよ。おじいさん、おばあさん、子どもも。中村先生も、その頃から顔が「ドクター中村」という顔になってるんですね。それは一晩かけて伝令が近隣の村々に「ドクターが来た」と触れて回っていたんですね。みんな夜に歩いてきて、ほとんど医者と関わったことのない山の民ですね。そういう人達がどんどん集まってきて、中村先生が丁寧に診察するんですね。生活の状況も聞くんですね。そうすると、当時そこでアヘンを吸ってる人がいて。医者もいないし、薬屋もないような山の奥では、アヘンを伝統的に鎮痛剤として使うんですね。ただ、みんな中毒になっちゃうんです。中村先生はそれを聞いて、アヘンがなんで体に悪いかということを説明して、生活の状況も聞いて。生活丸ごとアドバイスをしていたんですね。その時に中村先生を見ていたらですね。本当にいつくしみを持って山の民を診察して笑顔があって。

山岳部での巡回診療時の中村哲医師(提供:日本電波ニュース社)

この先生は、この山の民、持たらざる民がすごく好きなんだなぁ、と分かったんですね。その時の中村先生の無償の医療行為に対する山の民からの返礼は、お茶一杯なんですね。でも中村先生は、いただいたお茶を「は〜、美味しい」と言って飲むんですよ。その時にね、中村先生と山の民の間には目には見えない、カメラでは映らない強い結びつきがあるんだなぁ、とすごく感じたんです。私はカメラマンなので、カメラに映らないものがあるなんて言ってたら、仕事にはならないんですけども、その時にある種のショックで、「カメラに映らないものが世の中に厳然としてある」ということを思い知らされました。中村先生がなぜ言葉も宗教も民族も違う人たちから敬愛されるのか、ということをすごく強く感じて、一方で中村先生の山の民に対する慈しみもすごく強い。その関係に、僕自身も強く揺さぶられました。その時からこの先生をずっと取材したい、そばにいたいな、というふうに思ってしまったんです。それほど中村先生は、吸引力があるというか。そういう人でしたね。強く惹き付けられるところがありました。

2019年4月 谷津賢二さんと中村哲医師(提供:日本電波ニュース社)


聞き手 : ペシャライト 

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