ガテマラのグリンゴ
1997年10月に会社を辞めたあとに、年休消化中にグアテマラのアンティグアのスペイン語学校に行った。その時に出会ったマカデミアナッツ栽培の農場を経営していたアメリカ人の話である。
南米旅行者の間では、中米グアテマラのアンティグアはスペイン語を学ぶ街として知られている。人口4万人のこの街には40を超えるスペイン語学校があり、ここでスペイン語を学び南米大陸へ南下してゆくバックパッカー達は多い。
このアンティグアの街の郊外に一人のグリンゴが住んでいる。グリンゴとは今ではメキシコより南の南米諸国では広く自国以外の白人の事を言うが、本来的にはアメリカ人の蔑称である。歴史的に何かとパンアメリカン主義を振りかざし干渉してくるアメリカに対し、中南米人達の国民感情はよくない。
彼の名前はロレンソ・ゴッツアマー。一九四〇年八月七日カリフォルニア生まれのドイツの血を引くアメリカ人。彼は自分のことをグリンゴと呼ぶ。彼はグアテマラでマカダミアの農園を経営している。彼の半生はマカダミアとともにある。
マカダミアとはハワイ土産の定番中の定番のあのチョコレートの中に入っているマカデミアン・ナッツのことである。その味は知っての通り、個人的にはアーモンドなんかよりより美味しいと思う。さらにその美味しさだけではなく、ナッツから取れるエキスは人の肌や髪にもよく、資生堂やランコム等の化粧品にも使われているらしい。
このナッツ、アメリカと日本では知られているが、ヨーロッパでの知名度は低く、同行したスイス人は知らなかった。これはおそらくハワイ旅行者の数によるものだろう。彼の話では世界のシェアの八〇%ぐらいがハワイ産であろう、ということだ。
アメリカ人の彼がグアテマラに辿り着くまでの道のりは興味深い。スクールを出た彼はまず徴兵にとられアーミーに入隊した。時代はベトナム戦争が始まったばかりの頃であっが、幸いにも彼は米国内の勤務になりベトナムへ行くことはなかった。それでも彼はアーミーの生活よっぽど肌に合わなかったらしく、露骨に嫌な顔をしていた。
徴兵の期間が過ぎると彼はサンフランシスコ近くのRED WOOD FIRE DEPARTMENTで消防士になった。最初の転機は1972年に訪れる。消火作業中に左足に負った怪我が元で、三二才の若さで早々にリタイアしてしまうのだ。そして次の住処を彼はメキシコ、バハ・カリフォルニアに求めた。
バハで四、五〇〇ドル(!)で家を買い、悠々自適の生活を始めた。当時のメキシコの物価はロブスターが一二匹で五ドル、オイスターが一ポンドで七〇セントだった。
バハに移って三年目の1975年、彼は友人からコスタリカでマカダミアンナッツの栽培の話をもちかけられる。条件は四〇五ヘクタールの農園で売り上げの一〇%を彼がマージンとしてもらえる、というものであった。彼はその話にのり、早速コスタリカに出向いた。
ところがコスタリカに行ったはいいものの、彼はマカデダミアンについて何も知らなかった。そこで彼はIICA (Instute Interamericano Ciencia de Agurica)というコスタリカの農業大学にもぐりこんでマカダミアの栽培について学んだ。マカダミアについては25人の先生に対しなんと生徒は彼一人であったそうである。授業中だけでなく、ランチをとりながら、あるいは休憩時間にも先生にいろいろな質問をぶつけ、そしてマカダミア・ナッツの栽培についての知識を身につけていった。
しかし彼はこの学校の卒業証書は手にしていない。
「ペーパーには興味はない」
と彼は言う。彼が必要としていたのはマカダミアの栽培の知識であって、卒業証書ではなかったのである。ペーパーに頼った人間ばかりのこの世の中にあって、なんという潔さなのだろうか。
そして一九七六年一〇月にグアテマラに来て、自分のエスタンシア(農場)を持つに至る。
彼は現在のマカダミアの栽培方法について警告を与えている。マカダミアの栽培の歴史ハ古く、一八四八年に原産国であるオーストラリアで最初の栽培が試みられ、そして一八八八年にはハワイに移植された。しかしその栽培方法が確立し成功するのは、一九一七年のことである。その栽培方法とはグラフト、「接ぎ木」である。
接ぎ木はクローンを生み出す。つまりそれはDNA的に似通ったものばかりになり、種の進化を止めてしまう。それは血縁同士の子供が種の保存という観点から好ましくないということでもある。それぞれが皆違っていることで気候や条件の変化に対応できて、種の保存がなされる。
「我々は今世界の食料の供給について話しているんだ」
と彼は言った。風変わりなグアテマラの片田舎に住むこのグリンゴは、世界の食糧に語っていた。そうこの事は何もマカデミアンだけの話ではない。一般的な農業や養殖でも、栽培しやすい養殖しやすい個体を選んで掛け合わせて行く過程で、似通ったもしくは同一の個体だけになっていく。その結果病気になったら全滅することになる。
違いを認めること、多様性を受け入れること、それがエコロジーの基本的な考え方であることにほかならない。
ここには研究のために二、〇〇〇種類以上のそれぞれ異なったマカダミアがある。化学薬品は一切使用していない。もちろん接ぎ木は一切せず、種から育てたものばかりである。
一般的にマカダミアは種から花をつけるまで一一~一五年かかる。ハワイのタイプは種からおよそ六~八年で花をつけ、年間一本当たり五パウンドの生産量である。それに対して、ここのマカダミアはおよそ三〇カ月(二年半)で花をつけ、一本当たりの年間生産高は一五パウンドである。
彼のエスタンシアは「接ぎ木」によらないマカダミア栽培で経済的に成功している唯一のものである。
マカダミアの成長はとても早く、極めてオーガニックに成長する。ナッツからは極めて良質のオイルが取れて資生堂やランコムの化粧品にも使われているそうだ。
彼と話しながらずーっと思っていたことを聞いてみた。
「あなたは、フラワー・チルドレン、ヒッピーだったのではないですか」
「俺は1960年に20才でサンフランシスコにいたんだ」
影響をうけてない訳ないだろう、と言わんばかりに彼は続けた。
「いつでも頭の中は60年代に戻れる」
彼はヒッピーである。そのエコロジカルな生き方を貫き通した尊敬すべきグリンゴである。
私は最初、このエスタンシアに自分が通っていたスペイン語学校のツアーに参加する形で訪れた。彼の話を聞きたくてその後2回訪れのだった。3度目の別れしなの彼の言葉が忘れられない。
「どこにも行くべき場所がなく、何もすることがなかったら、いつでもここに来い」
パタゴニアに釣りに行く直前でその先のプランもなく、自由と同程度の不安も抱えていたぼくはその言葉におおいに励まされたのだった。
いつか自分もその言葉を誰かに言ってやりたい。それから27年経ったが未だにそう言えたことはない。
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