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「離れる」ことは悪いのか?

「テレビ離れ」、「車離れ」という「~離れ」という言葉が若者に対して使われますが、この言葉が使われている時というのは使用者が不利益を被る為に言葉の対象者を負の対象として使用いる事が多く感じるのですが、その度にこの言葉の使用者は変化を嫌う人たちなんだと思ってしまいます。
そもそも「~離れ」という言葉を考えた時に、この言葉の対象者は文字通り「離れている」わけですが、非対象者は「離れていない」(=留まっている、停滞している)わけですよね。
私がこの手の言葉を違和感なく受け入れられる(というか昔からある言葉の為、受け入れられるかもしれません。)のは、「親離れ」、「子離れ」の時ぐらいで、これらは子供、または親の成長を指していて、だいたいが前向きな意味として捉えられていますよね。
本来は今いる場所から離れていく事を指して使っていた言葉が、若者が消費してくれない為に使用される表現として使われているのは使用している年長者達を情けなく思えてしまいます。

村田沙耶香さんの『変容』という作品がありますが、人の変化を上手く描かれた作品となっており、変化を受入られない人間が変化していく事象をおかしいと捉え、以前がよかったと唱えながらも実は変化を受け入れ始めているという話で非常に人間の滑稽さを面白く描かれていました。

それに離れるという行為を考えた時に大切ではないから離れる事ができるわけで、本当に大切な事であれば、人間として離れる事は出来ないと思います。
私が10代の頃でしたが、食べ物は全てサプリに取って変わられるんじゃないのかと考えた時がありました。
栄養摂取を考えた時にその方が少量で効率的に取る事ができると思っていたからです。
実際はサプリは存在していますが、あくまで補助要素として存在しているだけで、それが主食となっていませんよね。
それは人が食すという行為は栄養を取るだけではなくて、食事という行為に含まれている全ての行為が大切だから変わってないのだと思います。
多分、そういった根幹の部分というのは絶対に変えられない要素なのでしょう。

そう考えると「テレビ離れ」や「車離れ」というのは職業(放映職や配送業など)として必須としてない限り、人間の私生活(都市部限定かもしれませんが…)で考えた時にはテレビも車も必須ではない為、離れていく要素でしかないのでしょうね。
経済で考えた時に被害を被る方々が必死に煽る事も分かりますが、そういった煽り文句も今の若い方々には通用しないですから、もうちょっと方向を変えた訴えが必要なんだと思います。

話が脱線してしまいましたが、離れていっているという事は成長している事で、離れられずにいる事は成長していないという考え方も大切ではないでしょうか。
私自身、テレビも車も離れてだいぶ経ちます。
最近は携帯からも離れても問題ないかなと考え始めています。