川島のりかず『フランケンシュタインの男』 について
普段こういうものを読まないので、読むのも、それについて何か書くのも気が引けるが、大勢の方がぜひ読むようにと薦めていたと思うので、読んだ。
そもそも、その「薦められ方」が不思議な感触だったと思う。いちいち引用しないが、どれも、とにかく読んだ方がいい、というニュアンスだったように記憶している。こういうスゴイ物語だから、とか、こういうことを考える上で必要な視点だから、といったことは、私の見た限り、目にしなかったと思う(実際本書を手に取ってみると、そういう紹介文が書かれてはいた、が…)。
そうなのだ。読んでみると、あまり派手なことが起こらないので驚く。それはとても大したことなのだが、この作品は、物語の外側に何かが飛び出るわけではないし、もっと言えば、主人公の外側にさえ、何の痕跡も残していないかもしれないのである。そして、そのことが、なんとも形容のしようがない、快とも不快とも表現できない読後感を残すのであり、この作品を非常な特別なものにしているのに違いない。
内容については、ほとんど過不足なくすべてが完璧な構成で描かれているので、ただただ感服するばかりだが、若干の言えることを見ていくことにする。
まず、主人公の設定がとても絶妙であることに驚く。社会人になんなんとする若者でもなく、人生の終わりが迫って過去に苦しめられる老人でもなく、家庭の危機を迎えた40代50代でもない、おそらくは30代前半(大学を卒業し市役所に勤務しているという、弟の年齢から推測した)のアパート住まいの子なし既婚者、である。未来があると言えば十分あるし、しかし子ども時代は遠い昔となりつつあるし、腰を据えて生きようと思えばーというか勤務先の社長が死ぬまではたぶん、結婚もして(幸福かはともかく)堅実に生きていたんだと思う。
このことが、読者に実感を与えるかは二の次としても、とにかく、何かが起こったとしてもあまり遠くまで届かないことを、納得させるような気がする。つまり、あの医師もごく普通、というか普通以上に親切だと思うし、妻も、優しくはないが例えば主人公が仕事を辞めてもなんだか落ち着いてるし、最後の刑事もそういう印象があるが、とにかく周囲が柔らかいのである。彼は社会的に・彼のパーソナリティ的に、そういう位置をすでに占めており、ああいうことをしてもなお、周囲はいつまでも柔らかく、ある程度まで無関心だろう。そして彼の子ども時代も、極端に貧しいわけでも裕福なわけでもなく、いじめられっ子とはいえ平均的な子どもであるし、どうもこのあたりが、この作品が読者にもたらす実感の要因の一つであるように思われる。
あまり現代思想めいたことを言うようで気が引けるが、実際ここ60年くらい、ある程度まで、外界は柔らかく、手ごたえがないのである。これは決して良いことではない。例えばほんの一例だが、主人公の父は、主人公を殴ろうとするが、ためらい、結局殴らない。それは彼なりの葛藤であるとして十分に理解されうるし、殴らないほうが絶対いい。ただし、いずれにせよ主人公は殴られたのと同じような心理的衝撃を負っているのであり、肉体的な痛みとして父の命令が外在しないだけかえって、彼の心に父の命令は浸透することになり、逆光を受けて影となった父は、肉体的な重みとは別次元の質量と恐ろしいイメージを伴って(もしかすると現実の父とはまた別の存在として)、彼の心に住まうようになる。
そうなのだ。主人公の周囲は、ベストではないけれども、いじめっ子たち以外は誰も彼を、少なくとも不当には取り扱っていないのだ(ちなみにこのことは、いじめっ子たち以外は、というところを含め、概ね綺理子にも当てはまっていた、だから‥)。それに対して、主人公は不当な恨みを募らせているのかというと、そういうわけでもなく、命令を純粋に命令として内面化し、その培養された命令のレベルにおいてのみ反抗しているのである(だから、「だから俺のことは死んだと思ってくれ」と妻と母に言っても、彼女らに実感レベルでの感銘をもたらさないー内面の葛藤が現実の問題とかみ合っていないのである)。
そこで、綺理子とフランケンが彼にとって何なのかである。
主人公の回想はおおむね真実であると考えてよさそうであるが、そうすると、やはり彼は綺理子があくまでもユニークな個人でありカリカチュアされた彼にとっての何かだけではない、ということに、気づけていないと思わざるを得ない。例えばなぜ彼女は巧みな風景画を描けたのかとか、「新しい友達ができた」ということについて、彼はあまりよく考えているとは思われない。そしてこのような彼女の人間としてユニークな点ははっきりと描かれているのだから、読者に浮かび上がるのは主人公が綺理子とフランケンの思い出をあのような世界に対する実感・感触としてしか理解していない・使っていないことに尽きる。それが極めて端的に、そうであればそうであるようにという形で描かれるから、クライマックスのシーンは「高揚感がある」といった感想が読者にもたらされるのであろう。
個人的には、綺理子が古井戸に落ちる寸前、鉄雄が「やめてよ」言っていることに奇妙な実感がこもっているような気がし、従って、彼が綺理子を突き落としたのだとする真相も彼自身が物語のすわりをよくするためにそう語っているような気がするのだが、いずれにしても、この作品は「ドラマチック」の方向を制御するダイナミズムがあるのは確かであるし、現実もフィクションより「ドラマチック」なのではなく「チック」に収斂しないから現実のドラマなのであって、それは、退屈なほどユニークなものとしてこの「殴ってこない」社会に遍在するのである。
主人公からの加害を受けた子どもたちがいて、彼の行為は許されるものではない。ただ我々としては、このような社会で・このような人間関係の中で、こういうどう取り扱ったらよいかわからないような行為がありうることを実感し、我が身を振り返り(振り返ったところでどうしたらよいか戸惑い)、更に我が子らをどうしたらよいか、どう守ったらよいか、何と言葉をかけたらよいか、ただただ途方に暮れるのである。
この作品について、まだまだ言えることはたくさんある。なぜかわからないが、たびたび読み返したくなる。それはこの物語は基本的に終わっていないという以上に、ある種、人間関係において、またそれを頭の中で考えるとき、「こうしたら(こう考えたら)こうなってしまう」部分がかなり精密に(画によって)伝えられているからだろう。そこに、救いではないが、何かこちらに伝わってくる柔らかいものがあるから、ページを繰ってしまうのだろう。生きてそうできる限り、我々は自らの過去を嫌でも思い出し、できればそれに意味を与え、与え直し、しかしまた思い出して、苦しんでいくのだろう。そういうジャンルでも媒体でもないと思われるようなものに、そういう思いをさせられる。そのことに、奇妙な感動があるのだろう。
薦めておられた方々には、感謝したい思いである。
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