小川未明『大きなかに』 について

 要するところ、晩冬から初春の極めて微妙なところで、狐に化かされたかのように、ぼんやりと何かがおかしい情景なのである。ただそれで済ませてよいか。おかしいにしても、ちょっと度を越しているというか、例えば「なんだか不思議だね、もうすぐ春になるからだね」と言って済ませられるものではないような気がする。
 それはやはり、「家族」とその内的な・外的なかかわり合いに、どこか不穏なものを感じ取るからに違いない。
 太郎は、「なにか、帰りにおみやげを買ってきてね」とおじいさんに言い、かつ、「おじいさんは、どうなさったのだろう?」とおじいさんのことを考える(家族も、「今夜はお泊まりなさったにちがいない」と言う)。敬語を使うこと自体がおかしいとは言わない。ただ、言葉を使っておじいさんを彼らの中でとらえるとき、あくまでも彼らは「お帰りなされただろうか?」などという言い方をするので、どのようなおじいさんの姿がそのような言い方で形成されるのか非常に気になるのである(言うまでもなく地の文ではそのようなことはない)。それは実際このようなものだと指し示すことはできないが、少なくとも、太郎が想像した―それは現実の一つの捉え方ではある―景色とは、調和できていない。

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