『特捜ロボ ジャンパーソン』第6話「さまよう冷凍男(アイスマン)」 について
「さまよう冷凍男」と聞いただけで『怪奇大作戦』の「氷の死刑台」を思い出すわけだが、それを見て考えられることとほぼ同じようなことを考えることもできる。悪く言ってしまえばSF作品であればどんなものにもある程度流用できるプロットなのであり、今回の問題はこれが『特捜ロボ ジャンパーソン』の一編としてどの部分のエッジを磨きだしたのかが発見できるかどうかという点に尽きる。基本的には、非常にすぐれている。
繰り返される「怪物」という言葉から、考えられるべきなのかもしれない。
工藤は殺人(未遂)の被害者である。これはほぼ間違いなく故殺である。だから「怪物となって復讐する」ということがまず考えられるのだが、彼はそうしない。一年がかりで壁に穴をあけ、脱出し、「生まれてはじめて泣いた」と言う。ここに若林は工藤の「いい人」たる所以を見ているわけであるが、要するに、この「生まれてはじめて」という謂いには「生まれ変わった」「生き返った」というニュアンスがあるからに違いない(泣いたことがない人はそうはいないだろうということもあるが、泣かなかった人生から喜びに泣くこともある別の次元の人生へと踏み出したことを考えられてもいい)。しかも「冷凍倉庫からの脱出」という事態には、「謀殺されるほどであった人間関係からの解放」をも見て取れる。
つまり工藤がアイスマンになったことを、一年前と連続していると見るのか不連続の事態と見るのかの違いである。若林だけが前者であると信じている(「生まれてはじめて」の不連続さを含めて人間の存在としては連続していると見ている)。世間の大勢は後者であると考えているのであり、ドクター椎名らは世間への復讐を唆すのだがそれは「怪物」としての力でもってであるのだから世間が考えていることにまさしく応答するものでしかない。つまり画面の中で若林がどこまでも孤独なのであり、問題はジャンパーソン自身がどう考えていたのかはっきりわからない、ということである(SS-Nが非道だというだけでは部分的である)。工藤本人でさえ、後者の考えを悟って絶命するのだから(人間の存在としては一年前に断絶してしまったのではないかということに、思い至ってしまう)。
シリーズ全体を通して問題となるのがおそらくこのような「人間観」の話であり、それは権力を掌握しようとする者の信念と、世間の大部分の者の信念と、主人公の信念そのものであって、それらでもってそれぞれの場合において何が脅かされ、何が守られ、何が達成されようとするのかをよく見極めねばならない。意外と抽象的で難しい物語である。この作品は自らを多く語らない。よい意味で、自意識が少ないのである。だから、こちらから問題意識を持って見ようとすれば、実に多くの論点が浮かび上がってくる。もともとこの文章も数年前に書いたものだが、登場人物らが「人工知能AI」とたびたび口にする本作は、時間がたつにつれてより一層重みを増してきているように思われる。
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