『特捜エクシードラフト』第40話「死の爆弾罰ゲーム」 について

 6年ほど前に書いた文章である。

 驚くのは,終盤の隼人の長い語り,弘の事情をすべて説明してしまうあの語りが,ほとんどシナリオの通りということで,当たり前と言えばそうなのだが。あまりものを語ってしまうと表現としてはよくないものになりがちだが,今回非常に複雑な構造がよく見えない形であるので,仕方のないことではある。
 小出徹(40)が「お母さんと一緒に残るんだな」と言うとき,というかそういう言い方をあのようにする時点で,あの夫婦の間に何か語られないわだかまりがあるのは想像できる。そうでなくても,ある距離は感じ取れるだろう。また,弘が自分から母(35)のもとに残るとはっきり言ったとは想像しにくいから,例えばまず康子がそうするように弘に言い,康子が徹にその旨伝え,この場面に至っていると考えるのが自然だ。これは多くの人が家庭でよく経験している風景だ。ここでは弘をどうしたらよいかについての意見の記名性および発言者の人格的意思は薄められており,その内容も客観的になんとなく妥当だから,パワーを持つ。このパワーが弘を抑圧しているのであり,具体的には「お母さんを置いて行く事になる」という言い方で表現される(隼人の洞察力たるやすさまじい)。おそらく康子は自分の意思としては「いまの仕事が順調だから日本に残る」ということしかないのだろうし,徹と共に渡米するのを「拒んだ」くらいの強さをもって息子を自分のもとへ置くことを主張したかは疑わしい(でなければ弘の心に母の立場を憂慮する余地はそもそもなかろう)。だから,弘は父のもとに行きたいにもかかわらず「アメリカなんて行かないで」と言ってしまうのは,一応家族3人がそろっていることで保っていた力関係(健康なものでないにせよ)の均衡があまりにも大きく崩れてしまい,新たな生活を構築するにあたって,確固たる意思を主張するには幼い自分を知っていたからだろう。そして言うまでもなく心優しくなくばこのことからの抑圧を感じ取ることはできない。(なおこの回想シーンの挿入されるタイミングはシナリオでもこの通りである。弘の気持が実際どうなのか逆に理解しにくくなるのだが,ここで父と弘は少しく断絶を経験したことを示唆して事情の奥行きを倍加する。)
 で,パワーをコントロールしうるものとしての「王様」「爆弾」である。
 乾の考えていたことはわかりやすい。雇われていようが結局のところ本当の物理的な力を持っているのは自分である,そういうことだ。だから黒田のアジトに爆弾を仕掛ける。しかし見事なキャスティングの通りあの若い男にあの爆弾とは強大すぎる力で,持て余してしまう。それが弘に(あくまで謂いとして)渡ったところでなおさらなのだが,弘が最終的にどう使おうとしたかは乾とは少し異なっていた。弘には金は必要なかったのである。しかしながら爆弾の価値を見出してしまった。
 主人公らは要するに爆弾の所在を何かの引き換えにするつもりはないことを言おうとするのだが,弘は別にそもそもそういうつもりではない。隼人が,弘が何を感じていたのかはわかったとし,しかし「こんな事をしても何も解決しない」と言う,これはある種伝統的な感動を呼ぶ言い方なのだが,弘は「うるさい!」と言う。解決がどうこうの問題ではなく,力関係の再編を試みているのだから,「こうなったらボクは何も喋らない」。「皆,死ねばいいんだ。爆弾で吹っとべばいいんだ!」と言うが,あの場所の爆弾が爆発してもみんなは死なないであろうことを彼が一番わかっているはずで,だから,弘は人格のないパワーの権化になろうとしている。ただ切羽詰まっていく。なにせ3時までの話。で,結局,「思い知らすことはできる」という結論に至る。
 「死ぬつもりなんだな」と喝破される弘の意図。子どもが自爆する。それは現実に数多くあった・あることだが,それを現実的ないじめ・家庭環境における問題を含めて子どもを主たる視聴者とする作品(しかも極めて商業的な作品)でこのように表現されたことがあったのだ。「甘ったれ」ていると言っていいかはともかく,隼人は調べ,聞き取り,洞察した上で,説得し,ともかく伝わったわけである。アメリカの父のもとへ行けば当然転校するわけで,都合がいいといえばそうなのだが,事態はがらっと変わりうると,こういう「解決」のしかたがあると示せたのは重要だと思う。
 人格のない論理の圧力に耐えかねて爆発するということは我々はよく耳目にしてきた。しかし論理の実体のない力の強さたるや現在ますますすさまじく,いまだに弘の魂を救わねばならぬ一方で,無難な論理そのものが自ら手を下しつつある。それは大門からも参照しうることかもしれない。
 なお、弘の受けるいじめについて。同級生らは「スーパーで万引きしたこと」を盾に取るが,たぶんそれも弘にとっての爆弾の一つだっただろう。それを命令したのは自分らではないとは言わず,それは「王様の命令だ」と言う。あの真ん中の子が王様というわけでも特になさそうだから(「王様」と書かれたなんかあれを首から提げるのは弘だけ),力関係を漠然とそのように言っているとしてもその的確さに戦慄する。それにしても手間をかけて「回数券」を作るような事態は異常で,完成作品ではわかりにくいが教師はそれを発見する場面慌てていることになっている。「やられる方は遊びじゃない」のはまさにその通りで,しかし現実に比して…と思ってしまうのは、その回数券に書かれていたのはあくまで「ボールぶつけ券」という文字であり,実際なされる以上の事ではとりあえずなかったためである。それが事態を矮小化(幼稚なものと)してしまい,「死ぬつもり」が飛躍ととられる可能性はある(その人の感受性に問題があるとは思うが)。つまり例えば「お葬式ごっこ」を念頭に置いて話をしている。
 弘は大変素晴らしく演じられているが,言われるほど優柔不断には思えない。というか変なタイミングでそう言われてしまう。そういう言い方で言われる様子ではなかろう。だから,憶測だがあの担任が通知表か何かにたまたまそう書いたことがあるのではないか。それで,弘にまつわる複雑なことはすべてその口当たりの良い四字熟語で退けられてきたのではないか。個人的な経験からありそうなこととして言っているのだけれども…。


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