イプセン『野鴨』 について
登場人物の自殺(の企図及び未遂)について言及される。ヤルマールとその父、及びグレーゲルスの貯金が「まあもつでしょう、生きてる間」というのも穿って考えればそうである。だが、それを既遂にまで運ぶことができたのはヘドヴィク一人なのである。ヤルマールもヘドヴィクも「ピストルを自分の胸に向ける」ことをしたのは同じだ。ただ前者はそれ以上のことができず、後者は完遂するのである。これを比べられることだとしたら、その違いは何だろう。
注目したいのは、ヤルマールの「生活」である。それはグレーゲルスに言わせれば嘘偽りのものなのだろうが、これはかなり強固な形態をもっていたと思われるのだ。
これが、夫が出ていこうとする時に言う台詞なのだろうか。まして自分の過去が暴かれた結果である。しかし大騒ぎしていたヤルマールもヤルマールで、ギーナから食事を勧められて
と言うのだが、こういうことを口に出す場合決まってそうであるように、実際どうだってよくなくて、彼はオープンサンドを都合二切れ食べることになる。しかも二切れ目を食べるころには、
などというやり取りさえしてしまう(ちなみにこの家庭でのバターの消費量が多いことを、第二幕においてギーナが発見している)。
このことに注意すると、この後グレーゲルスが入ってきて「朝食を食ったんだな」と言うのだが、それに特別な調子が加わっているような気がしてくるのである。つまり第四幕までの波乱があって、グレーゲルスとしてはヤルマールに新しい生活を送ってほしいわけだが、その新しい朝に「朝食を食ったんだな」と言うことの感触が独特なのである。つまり「朝食を食った」と言われるように形容される事態とはヤルマールの昨日までの家庭生活は連続しているということの表出であるので、グレーゲルスが引き続いて「どうすることにしたんだ?」と問うのは生活の様式はそのままなのであれば、どのような新しい決意でもってそれを立て直すことにしたのかを聞いているのである。したがって、彼の「家を捨てて出ていく」ということはそれと全くかみ合わない答えであるから、グレーゲルスは困惑するのである。
いったいどこの世界に、これから別居しようという朝に朝食をそこで食べる者がいるのだろう。「差し当たりシャツ一枚と、ズボン下を二枚」だなんて、これでは行きたくない出張に出発する朝のようではないか。つまり彼はいかにそれが自分の良心と照らして許しがたいものであったとしても、この人間関係を離れては暮らしようがない(彼自身二つ目のオープンサンドを食べつつ「もうちょっといてもいいかな」というような気になっているし、そうなることをギーナに見透かされている)。
ヤルマールの家庭環境を振り返ってみよう。家政はほとんどギーナが取り仕切っており、ヤルマールは写真師としてスタジオを経営しているかのようであるのだが、写真の仕事に関する技術はギーナも身につけているのであって、顧客も多くはないから、そちらの方面もギーナがやれるのである。だからこそヤルマールは「発明」に没頭できている。
「発明」。それがおそらく写真の技術に関するものであることは示唆されるものの、やはり「発明」あるいは「発明家」という言葉に独特のニュアンスがある。「普通でない感じ」がある。本人はそのことに気付いているようであり、発明ではない「写真の修整」の仕事を誰も非難していないにもかかわらず「一所懸命」やっていることを突っかかるように言明して見せている。だが結局それほど集中して仕事をしているわけではないし(「明後日から、何でも自分でやっていくぞ、誰の手も借りないで働くぞ」という、結果が目に見えたことも言う)、ギーナとしても自分がやれる仕事だからヤルマールに発明に没頭してもらっていても(いなくても)別に構わないのである。この絶妙で強固なバランスをもたらすために、医師レリングは「人生の嘘」として「発明」を唆したわけである。
だから、いかにヤルマールが思っていようが、また将来的にヘドヴィクの視力が衰えていくような不安があったとしても、ヘドヴィクのヤルマールへの愛さえあれば、家庭環境そのものが壊れてしまう理由は全くないのである。おそらくグレーゲルスが望んだのも家庭を壊すことことではない。家庭生活そのものに変更を加えることなく、真実を知ったうえで、新しい決意をしてほしいということ、それが彼なりの「理想の要求」であったわけで、その決意を示すこととして、ヘドヴィクがノガモを殺すことが重要であったに違いない。
それがなぜそのようなことになるのかにはここでは深くは立ち入らない。ただ、ノガモの背景的状況たる「うなぞこ」を断ち切ることで、この家庭の背景にある「真実」を「それはそれ」として脇にどけることができる、ということではあるだろう。しかしヤルマールはヘドヴィクが自分の子ではない(可能性)を「僕には子供がないんだよ!」というように解釈してしまう(「僕の家庭は無惨にも崩壊したんだよ」というのはヤルマールの見方に過ぎない)から、ヘドヴィク自身が「うなぞこ」の背景へと退いてしまって、彼女は自らを撃つのである。そしてもし納屋に猟場をつくったことが「森」を家庭の背景に持ち込んだことと同一視できるなら、「森が復讐しとるんだ!」というエクダルの直観は極めて正しいし、それが舞台上に凝縮された人間関係の歴史そのものとなる。
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