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みんな知ってることに今更気づいた話①

Hello〜 ペリーです。

今日は、みなさんが当たり前に知ってることに私が今更気づいた話をします。
今日はというか、そういう事がけっこうたくさんあるので、これから気づくたびに書いていこうと思います。

今日書く私が気づいたことは、「日々の小さな積み重ねが大切」ということです。

生まれてから34年が経ちますが、34年間、コツコツと何かをするということを一切やらずに生きてきました。

そして近々に急遽生じた必要にガァッ!!と驚き、慌てて取り掛かり、一時的に異常に多くの時間を費やしてなんとか乗り切る、の繰り返しでした。

しかし、だんだんそれが利かなくなってきました。理由は2つあります。

ひとつめは、時間がないことです。
そもそも「一時的に異常に多く費やす時間」がもう私にはありません。この時間は、まとまってひと塊りになっている必要がありました。
しかし、働く時間、生活のことをする時間、家族や友だちと会う時間、その他色々と必要なことをする時間を差し引いていくと、もう何かに大量に費やす「ひと塊りの時間」はそこに存在しないのです。

ふたつめは、気力がないことです。
仮に「ひと塊りの時間」があったとしても、それを費しきって短期一点集中で限界まで頑張る気力が、私の中にありません。心の踏ん張りがきかないというか、ハートをひもでキュッとしばって深い集中の海底にダイブしていくことがどうしてもできなくなっているのです。
そしてこの気力の問題は、ひとつめの時間の話にも関係してきます。先ほどの私の文を読んで、「生活のこと、友だちと会う時間など、まだ余裕がありそう、そこを切り詰めればけっこうまとまった時間作れそうだけど…」と思った方がいるかもしれません。
それは真実と思います。しかし、それでは気力が持たないのです。かつてほぼ無尽蔵に存在した気力は、多少自分のしたいことを我慢してでも何かに向けてエイヤと力を振り絞ることを可能にしてくれました。
今の私は、自分のしたいことに時間を費やして、嬉しいな楽しいなとひとしきり過ごしたのち、ボーナスとして「さて何かを頑張るか」という気力をおまけで得ているような状態です。
そして、この「自分のしたいこと」が、年を経るごとに自分以外の誰かを必要とするようになっています。
人と会って話すこと、家族と同じ場所で同じ時間を共有すること、そういうことは確実に自分に新しい1日を生きるための勇気と励ましを与えてくれます。もしこれらを無くしてまで何かに集中しようとしたら、自分の中のどこかや何かが必ずおかしくなると思います。

でも、どうしても何かをやらなければいけない時がやはりあります。
新しいスキルを得ること、新しい世界を拓くこと、自分の内面をより深いものにすることをするためには、どうしても頑張って達成しなければならぬ目標がでてきます。
時間や気力がない今、それをなんとか達成するためにどうすればいいか、最近気づきました。
「日々の小さな積み重ねを大切にする」ということです。
具体的には、
①すきま時間を必ず有効に使う誠実さ
②すきま時間でやったがゆえの低い成果への感謝
だと思います。

「ひと塊りの時間」を費やせた頃よりも、すきま時間でやった一回一回の成果というのはどうしても低くなります。時間も短いし何かの合間にあまり集中しきれていない頭で取り組んだのだから、当たり前ですね。「やった感がない、意味あるのかな、やらなくてもいいや」と考えたくなります。でも、それを必ず積み重ねれば、必ずなにかが起こります。なにか起こったらいつか目標も達成できると思います。
一回一回の「低い成果」への小さな感謝をすることで、またもう一回続けることができるようになります。
すきま時間は大きな気力を必要としません。でも低い成果に感謝できずイライラしていると、気力を削がれます。

いま私が日々気づいている「みんな知ってること」たちは、基本的に「自分の衰え」が発端となって気づく、というかその衰えの中でなんとか自分の求めるスタンダードに到達ないし継続するためにはいよいよやらざるを得なくなったことたちです。

なにか当たり前のことに新しく気づくってけっこう好きです。
脳がスンとして、なぜだか天を仰ぎたくなります。
明日も天を仰ぎたくなることに出会えるといいな、と思います。

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