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自分の中の葛藤と能登半島地震


1月1日。
僕は職業上、正月など関係なく普段通り仕事をしていた。

16時10分。
はっきり覚えている。ベッドに横になっている患者さんのベッド横に座り、患者さんと他愛もない会話をしていた。

突然の激しい揺れが襲ってきた、、、
最上階の6階にいた僕は、咄嗟に患者さんに覆いかぶさった。高層階にいたから体感震度6くらいに感じた記憶がある。
幸いにも天井からの落下物は無かった。

他患者さんの安否を確認するべく、ホールにでると鳴り止まないテレビ、スマホからの緊急地震速報。
震源地は石川県だった。津波警報まで出ている。
その時ただの地震ではない。と確信する。


数日が経ち、X、YouTube、他のSNS等では能登半島地震は人工地震だ!とか陰謀論を唱える人達が出てきている。
見るに堪えなくて、片っ端からブロックしていった記憶がある。
注意喚起してる人、物資を送ったり、実際現地まで行き物資を届ける人、募金をしてる人。様々な人達がいた。

能登半島地震が起きた時から、僕の心の中にモヤモヤがずっと付き纏っていた、、、
「今の僕にできることの最大限ってなんだろ」って。
映画見たり、サウナ入ったり、好きな音楽聞いてもそのモヤモヤは一切晴れる事はなかった。

1人暗転した世界でずっと葛藤してた。

究極の悩み事は信頼している家族、親友、友人、同僚に相談せず1人で抱え込むというめんどくさい性格の僕は病みそうだった。

考え方の視点を変えて、そもそも10年以上前「なぜ看護師になりたかったのか」って考えた時に、大切な親友が交通事故で亡くなり、人の役に立ちたい。
って思ったからで今、人の役に立つのは、金沢に行き災害派遣する事ではないのか。って考えに行き着いた。

今思うと、それは間違いではない選択だった。って自信もって言える。

そして、僕のお世話になってる人の出身地が石川県であったのも大きい。

決まっている仕事をリスケし、関係各所に頭を下げ災害派遣に申し込んだ。

災害派遣現地入りすると、あまりにも酷い惨状に言葉を失ったと同時に、どうしようもない無力感に襲われた。
実際に災害の現地に行き「見る」という事は本当の意味で「知る」という事。
この時の知るということは、被災地の方の思いを一緒に背負うという事。
みんなで一緒に背負っていけば、こういう被災も何とかなる。って思う。

自分が派遣された先は体育館。
体育館の中にはテントが100以上張られておりコロナ患者、ノロウイルス患者がテントで暮らしていた。
休みなど無く日々感染対応に追われながらがむしゃらに働いた。

被災者の方々は、本当に人として強かった。
1日も早く家に帰りたいはずなのに、離れ離れになった大好きな家族に会いたいはずなのに、大好きな恋人に会いたいはずなのに、一言も弱音を吐かず、一生懸命に今を生きて希望を捨てずに頑張っていた。

むしろ僕達、私達をしきり気にかけてくださり、労いと感謝の言葉を常々言ってくださっていた。

かけてくださる言葉が優しく、暖かく頑張る糧となり、被災者の方々の目にとまらないところで泣いてたりした。

とある高齢女性がテント生活を終え、僕のところに来て「お世話になったね。心のお薬ありがとう。」と言ってくださった。
嬉しさのあまり抱きしめてしまった。
看護師冥利に尽きる言葉だな。って心から思った。
自分自身の仕事に自信、プライドを今以上に持てた。
約1ヶ月の災害派遣を通じて、亡くなる方、我が家に帰られる方、テント生活になる方、様々なかけがえのない出会い、別れがありました。


最後に今回の災害派遣を通じて、様々な勉強をさせていただき、石川県が大好きになりました。

百聞は一見にしかず。って言葉がある通り、実際行かなければ分からない事があります。
正直テレビが報道してる事なんてごく一部だし、報道陣は平気でデリカシーがない質問してきてた。



必ず、また来ます。
今度は美味しい物いっぱい食べて、いっぱいお金使いますね。


改めて、能登半島地にあわれた方や亡くなられた方のお悔やみ・お見舞いを申し上げます。
石川県が一日でも早く明るい活気が戻りますように。


読んでくださった方々、ありがとうございました。

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