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Snookと元Snookの2人について①


Oskar LinnrosDaniel Adams-Rayというスウェーデンの歌手をご存知ですか?

スウェーデンではかなりメジャーな存在で、日本で言えば…どれくらいでしょう、レコード大賞や紅白には出ることができるくらいと言えばいいでしょうか。本国ではそれくらいの人気はあるのですが、日本ではほぼ知られていないアーティストです。スウェーデンのポップスに興味がある人以外は名前さえ目にする機会がないはずです(Avicii好きな人はダニエルの名前は知ってるかもしれません)。

スウェーデンの音楽界ではそれぞれ確固とした立場を築いているオスカルとダニエル。この二人、2000年代前半から後半にかけてSnookという2MCのヒップホップデュオを組んでいました。顔が割と可愛かったのでアイドルっぽい人気もありつつ、スウェーデンにおけるオルタナティブでポップなヒップホップの間口を広げたグループであり、スウェーデンのヒップホップ史においてはとても重要な位置を占めています。

そんなSnookなのですが、元メンバーであるオスカーとダニエルの関係、これがもう実にエモい。そしてこのエモさはSnook、そして彼らのソロ曲を聴く際にも重要になってきますし、何より本当に尊い。この二人の関係を推しつつ、且つ彼らのディスコグラフィーに興味を持ってもらえれば…という思いからこの記事を書きました。筆者はスウェーデン語はあまりわからないので誤訳・意訳が多いかもしれません。訳は話半分に聴いて頂きつつ、興味を持った方には一次資料にアタックして頂ければ幸いです。


左がダニエル、右がオスカー。MTVヨーロッパのアワードで賞をもらった時の写真。

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1983-1997

Oskar Linnros(オスカル・リノロス)は1983年8月15日、ストックホルム生まれ。Daniel Adams-Ray(ダニエル・アダムス・レイ)はリノロスと3日違いの1983年8月18日、ケニアはナイロビ生まれ。

スウェーデン人のお父さんとインドネシア系のおかあさんの間に生まれたダニエルは、ナイロビの裏路地を裸足で駆け回ったりおうちでチーターを飼ったりするような幼少期を過ごした後、中学3年生の頃にはじめて父方の故郷であるスウェーデンに住むことになりました。スウェーデンにやってきた14、5歳のレイちゃんは生まれて初めて雪を見て、「なんて美しい国なんだろう」と感嘆するものの、まだ言葉が習得できていないことや肌の色の違いから学校ではいじめられてしまうことになります(本人ははっきり「人種差別」と言っています)。

1997-2000

その後ダニエルは「Viktor Rydberg Gymnasium(オデンプランキャンパス)」という私立高校に入学。個人の個性を伸ばす落ち着いた校風ゆえいじめにあうことはないものの、学校生活に馴染めないまま日々を過ごしていたある日、数学の赤点クラスでオスカルに出会うことになります。このままでは落第してしまうので誰かと協力し合わないと…ということで組むことになったオスカルとダニエル。オスカルはオスカルで(おそらく中2~高2病のため)学校から浮いており、あぶれもの同士で意気投合した2人はすぐに親友と呼べる関係になりました。

ダニエル曰く、「ぼくらは出会った当初、お互いのことをそっくりだと思ったんだよ」「(それまでスクールカーストの外側で生きてきたけれど)ぼくらは一緒にいることで今までよりも強くなれた」。2人とも音楽に興味があり、ダニエルのお父さんのレコードコレクションを一緒に漁ったりするなかでヒップホップへの興味をはっきりさせていくことになります。2MCでグループを組むことにした2人は、オスカルのお父さんのマックを使い自分たちのラップを録音して遊びはじめました。2人で最初に作った曲は、お互いをディスりあう内容だったそうです。ちなみにダニエルは解散後のインタビューで「Snookが恋しい?」という質問には「Snookのことは恋しくないけど、僕らの間にあった友情は恋しく思うよ、特に高校時代のね」と、「Snookとしての一番の思い出は?」という質問には「はじめて一緒に録音したものを聴いた時」と答えています。

2000-2003

そうこうしているうちに高校を卒業。同級生たちが就職したり、そうではない子はアジアを放浪したりしている中、彼らは一緒にアパートを借りるために、そしてラッパーとしてデビューするためにリリックを書いては録音する生活をはじめます。Snookという名前がどの時点で付いたかはわからないのですが、Snookとはスウェーデン語で鼻のスラング。高校時代はおぼっちゃま高校の中でヒップホップなんて興味をもつ子はおらず、結果としてあぶれもの同士がさらに浮くこととなっていましたが、高校卒業後は少しずつ若いラッパーやトラックメーカーと出会い、世界を広げていきます。この頃はストックホルムから40分程度のウプサラに住むFilthyことMagnas Lidehällのスタジオで録音をすることが多かったようです。

2003-2005

時はマイスペース全盛期。「Änglalik」や「Havok」「 Generation fuck you」などの曲がネット上で話題になっていたSnookでしたが、Snookとしての正式な音源デビューはそのFilthyと組んでいたAfasi(Herbert Munkhammar)のユニット、Afasi & Filthyの「1990 nånting(2003)」となりました。この曲のヒットをきっかけに、翌年にはSnook初のアルバム、「Vi vet inte vart vi ska men vi ska komma dit」の自主制作盤をリリース。これの売れ行きが良かったため、何曲か追加してMalmöのレーベルから正式にデビューすることに。収録曲の「Mr.Cool」はスウェーデンのラジオやMTV的なものでヒットを飛ばし、所謂レコード大賞的なものではその年の「最もブレイクしたアーティスト」にも選ばれました。

ヒップホップとしてはかなりオルタナティヴな音だったこと、なによりヒップホップにおいては当時かなり不利であったアッパークラス出身であることから厳しい評価は受けますが、見た目の可愛さと若さ青臭さからアイドル的な人気も獲得し、一躍人気アーティストの仲間入りをすることになりました。ツアーだけではなく大型フェスにもブッキングされるようになり、2004年のHultsfred Festivalでは深い時間でのライブながら会場の床が抜けるくらいの騒ぎになったとか…ちなみにオスカルは解散後のインタビューでHultsfred Festivalでの一夜のことを「Snookで一番の思い出」にあげています(オスカルはこの時、長髪をステージ上でばっさり切ったとか)。

2006-2009

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2006年にはセカンドアルバム、「Är」をリリース。このアルバムはファーストと同じように売れ、それよりも高評価を獲得することになり、スウェーデン版グラミー賞やヨーロッパ版のMTVアワードを受賞するものの、その裏では二人の仲が徐々に悪くなっていきました。理由ははっきりとは語られていないものの、2人の弁をまとめるとやりたい音楽が食い違ってきたことや、そのためにお互いの存在が足かせになっていたこと、なによりSnookそのものが自分たちでコントロールできなくなってしまったことが理由のようです。また、リーダーシップを取っていたのはオスカルでしたが、ダニエルの方がラッパーとしては評価が高く、2005年にフリースタイルの大会でスウェーデン1の座を獲得したりしたあたりから少し2人の関係は変わってきていたとか。2ndアルバム関連のツアー後オスカルは何度もダニエルに連絡を取ろうとしたけど、返事が返って来なかったと言っていて、「後ろを振り返りもせずに行ってしまったのはダニエルの方」というような認識もあったようです。

オスカルはこの頃自分の恋人でもあった歌手Veronica Maggioをはじめとして、プロデューサー業をスタートし、ダニエルは専門学校でかねてより興味のあった服飾デザインを学び始めます(服飾で学士を取った後は、自分のモードブランド「LAGOM」を立ち上げています)。

2008年はSnookとしての活動はほぼなく、2009年の夏に前々からブッキングされていたフェスとコンサートを2本こなした後、Snookは解散のステートメントは出さないまま事実上の解散となります。ダニエルはSnookとして最後となったコンサートを振り返って「解散を決めていたわけではないけれど、お互い本能的にこれがもう最後だな、ぼくたちはこれまで一体何をしていたんだろうと思った。」「でも、オスカーともう喧嘩をしたりいがみ合ったりしなくてもいいと思うとホッとした」と述べています。

→パート2、ソロ活動とリユニオン編へ続く

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