当たっていてヘコんだ、でもちょっと楽になった「月の欠損」の考え方
先日noteで月星座関連の記事を探していたら、
”「月の欠損」が当たっていてショックだった”
というような内容の記事を見つけた。
「月の欠損」?聞いたことないな。なんだろう?
と思ってリンクを追っていくと、マドモアゼル・愛という先生が独自に研究して提唱されている月星座の解釈だった。
心当たりがありすぎて数日間ヘコんだほどだったのでここにまとめておこうと思う。
まず、月星座とは
ある人が生まれた時間、場所をもとに、その瞬間に地球から見て月がどの方向にあったかによって決まるもの。
星座というのは、地上にとっての東西南北みたいなもので、宇宙の方位を表すと考えるとわかりやすい。私の場合は、生まれたときの月がかに座の方向にあったので、「月星座はかに座」ということになる。
通常の占星術では、月星座によってその人の感じ方や、プライベートな性格などを表すとされている。
しかし「月の欠損」の解釈ではちがう。
月星座が表すのは、その人に「生まれながらに与えられている欠損」だというのだ。「欠損」が「与えられている」って、なんだか意味深。
さっそく私の場合、月星座がかに座を調べてみる。
まず、かに座の表す分野は
・母性がある
・家庭を大事にする
・人の気持ちがわかる(特に家族など仲間意識を持っている相手)
など。これらの特徴が月星座だとすべて「ない」ということになる。
しかも、
単に「ない」だけではなく
・その性質が「ある」と思いたい・思い込んでいる
・人からもそうだと思われたい
・ずっとそのことを考えてしまう
・でも獲得できない
というのだ...!ひゃ〜!
ここで思い出したのが、小学生の頃のこと。
調理実習があったときに、なぜか私はじゃがいもの皮くらい包丁でむけないとダメよね。と思っていた。ピーラーなんて楽しちゃダメよね、と。
それは、「全員むけるようになるべきだ」という感覚ではなくって、「私はそうでないと納得できない、かっこわるい」という感覚に近かった。ちょっとムキになっているような。
「料理ができていいお母さんになりそう」と人から思われたかったと思う。家庭科クラブにも入っていたことがあるし、得意な裁縫の授業のときなんかは困っているクラスメイトをせっせと手伝ったりもしていた。お恥ずかしい話、それらの動機には「裁縫ができてすごいね」と言われたいエネルギーがけっこうあったかもしれないなと思ったのだ。
それから、もう一つの心当たりは子育て中に感じていたこと。。
子育てをしていると、今何をするかの判断を細かく重ねていきながら過ごしていくことになる。
おむつ今変えた方がいいかな、もうちょっといけるかな、ミルク足したほうがいいのかな、眠くて泣いてるのかな、寝かせてみようか、でも今寝たら夜寝つきにくくなっちゃうかな。というように、ちっちゃい判断をたくさんして過ごしている。
こんなとき、私は「子どもの気持ち」を最優先で決められてないな〜と感じて罪悪感を覚えることがけっこうあるのだ。
いつも、私の都合やスケジュール上うまくいくかとか、これが習慣になったら後々私が困るだろうなとか、そういう基準で判断してばかりいるように思えて、私って冷たい母親なのかもな〜とちらっと思ってしまったりしていた。
「月の欠損」という考え方を知れてよかったのは、そもそも私には「ないもの」だということ、これからエネルギーを注いだところで「獲得できないもの」だとあきらめることで気持ちが楽になったこと。
そして、同じ目的を達成するために、もっと私がやりやすいアプローチに変えていけばいいということも。
たかが占いの一説を信じて、そこまであきらめちゃう必要はないんじゃないかと思われそうだけど、私が、つい数日前に知ったばかりのこの考え方を「当たっているかも」と思えたのは、「すごくショックを受けた」からなのだ。何日か心の端っこのほうがずーんと重たくなった感じ。
私はこのショックを、図星のことを言われたときのそれだと感じた。当たっていなかったら、もっと軽くスルーしていたと思う。
そして、「家庭的な人と思われたいから」「いいお母さんと思われたいから」という、「人からこう見られたい」というエネルギーで動いていたかもと思い当たったからだ。
そういうのはもう捨てたい、自分に正直に生きていきたいと思っていたので、このショックは大切に優しく受け止めて、「じゃあ本当の私の願いはなんだろう?」について考え行動することにエネルギーを使っていきたいなと思った。
(そもそもマドモアゼル愛先生も、「月の欠損」の提唱によって誰かを脅かしたいのではなく、みんなが本当の自分を生きるための気づきになるようにという思いで語られているように思えた。とても紳士な雰囲気をお持ちの、誠実でクリーンな印象のエネルギーで語っていらっしゃる方で、私はとても好きです。)