拾ったのは吸血鬼でした




薄青い蛍光灯の下で拾ったのはひとりの吸血鬼だった。



その日はバイトの早番で。
大好きなゲームの新作が配信されたばかりで早くプレイしたくてうずうずしていた。
18時に上がったら食料を調達して駅からは徒歩じゃなくバスで帰って…なんて妄想ウキウキアフターファイブは午後にヂリヂリ鳴った電話で粉々に砕けた。
午後番シフトの主婦さんが子供の体調不良で来れなくなり、しかし代打が見つからないというのだ。

「……キュヒョンく…」
「嫌です無理です絶対ムリです」
「まだ何も言ってないよ僕」

電話片手に悲しげな上目でこちらを見てくる店長を一瞥し、グッと息が詰まる。

やめろ、そんな目で見るのはやめろ!
中年のおっさんの上目遣いなんて通用するわけ無いだろう!
今日は18時で上がるんだ、夜通しゲームするんだ、明日は非番なんだ、俺は帰るんだ!!!





「おつかれ…っしたぁ………」

時刻は23:45。
結局、主婦さんの代わりに遅番に入り、終電ギリギリまで働くこととなった。
キュヒョンはもうベテランの域なので、通しで働くことももちろんある。
もちろんあるが、最初から通しで働くのと、18時に上がれると思ってたのに23時まで働くのとでは、疲労度がもう、全っっっ然違う。

駅からアパートまでの道のりはとっぷりと夜の闇に覆われ、機械的に前へ前へと踏み出す足にゼリーのように濃い闇がまとわりつくようだった。
街灯が落ちる箇所だけがまぁるく明かりを灯し、キュヒョンの足元をやさしく照らす。

つくづく、損な性分だよなぁと思う。
頼み事には、NOと言える。
ノート貸して、代返して、お金貸して、クソくらえだ。
だけど、困ってる人を無視できない。
困ってる人の頼み事を、断ることができない。
自分のことをお人好しだとは思わないが、困ってる人の目を見てしまうと胸がむずむずそわそわしてしまう。
ほっとけなくなる。
偽善だなんだと自身を罵っても、断った後の腹の据わりの悪さを思えば結局受け入れてしまうのだ。
もう20代も後半にさしかかり今更自分のこの性分が変わることも期待できないが、いつかつけ込まれ痛い目を見てしまいそうでいっそ怖くはある。


使い古された雑巾のような気持ちになりながらもわずかな飲み物と食料だけコンビニで調達しようやくアパートに到着したキュヒョンだが、困難はまだまだこれからだった。

おっさんが、階段下に寝ている。

…は?
は、いや、酔っぱらい?
いやいやいや、なんでここで?

そのおっさんはキュヒョンのアパートの階段下にうずくまるように寝ており、避けようと思えばかろうじて避けれるところにいた。
キュヒョンは正直、勘弁してくれよと天を仰いだ。
勘弁してくれ。
もう今日の俺の善意は売り切れだ。さっき品切れの立て札を置きました。
そう思うのに無視ができない自分が憎い。

「お〜い……?おじさん……?」

小声で呼びかけてみるもおっさんはピクリともしない。
死…?!
恐る恐るおっさんに近寄り、まずはクンと匂いを嗅いでみる。
酒の匂いも、浮浪者特有の匂いもしない。むしろなんか花みたいな匂いがする。
そして近づいて分かったが、恐ろしく仕立ての良さそうなスウェードの黒いコートを着ていることに気が付いた。
安い蛍光灯の下でも輝くような光沢を放つなめらかな黒が目に眩しい。

なんだこいつ…。
ますます募る不信感。
可能な限り関わりたくない、怪しすぎる。
やはりまたいで部屋に上がろうか…。

こうして悩んでる時点でキュヒョンの善意は売れ残りがやはりまだあったわけで、悩んだ末にもう一度声をかけた。

「おっさん、おっさん!寝ないで、死ぬよ?警察、呼ぶからね?」

かき集めた善意がひとまず警察を呼べ!と叫ぶのでデニムのポケットに突っ込んだスマホを取り出す。
そうだよそうだよ、警察を呼べばいいんだ。
スマホを指紋認証で立ち上げ…と、ちらりとおっさんに目をやる。
寝てる、よな。
おっさんおっさんと呼ぶのはひとえに、彼が輝くような白髪だったからだ。
蛍光灯の白々とした明かりが照らす彼の髪は雪の白というよりも、夜空の星を煮詰めたようなとろりとした銀色を放っていた。
と、まぶたがピクピクと震え薄い皮膚が揺れる。
あ、起きるんだろうか。
まぶたがゆっくり持ち上がる。
キュヒョンは魅入られたようにその震えるまぶたを見つめていた。
目尻に寄る細かいしわ。
キュヒョンは舌の上にせり上がった唾液を、無理やりごくんと喉に押し込んだ。




ガチャリ

重たい金属音で瞬きを一つし、そこが自分の部屋の中であることに気付いた。

あ、え…?

壁にもたれるように座るおじさんが右目の視界の端に写る。

なんだ、これ?
え、俺、いつの間に移動した?

指の先からさぁっと血の気が引いていく感じがする。
今確かに不可解なことが目の前で起こっている。
しかしおかしいのはこの状況なのか、自分の精神なのかが分からない。
軽いめまいがし壁に手を付いて体を支える。

疲れて、るんだろうな、うん、きっと。

目の奥が痛む気がしまぶたをぎゅうっとつむり、一瞬現実逃避を試みる。

どうか、どうか…!

「助かった、礼を言う」

へ?

パチリと目を開くと目の前には座っていたはずのおっさんがすっくと立っており、じっとキュヒョンを見つめていた。

やばい!

逃げよう!と思うのに、彼の瞳に見つめられると、つむじの辺りからじわじわと身体が麻痺していくような気がする。

逃げ………にげ?なぜ?

彼の瞳は透き通るような綺麗なルビー色で、生まれたての赤子のその血の上澄みだけを溶かしたかのように、残忍で澄んでいた。
その瞳をくるりと覆うまつげは濡れたカラスの羽のようにしっとりと輝いており、つまり、耐え難いほどの美しさを放っている。

「まずは味見しても構わないか?」

彼の、薄く色のない唇が動くさまが目に入る。
彼の話す言葉も耳に入ってはいる。
なのに、脳への信号が遮断されているかのように、映像も音もただそれとして、意味をなさず理解もできずにいた。

あ、じ、み…

彼が音もなくするりと距離を縮める。
視線はずっと彼の赤い瞳に捕らえられたまま、そらすことも目をつぶることもできない。
と、彼の手がキュヒョンのあごに添えられたが、氷のようなあまりの冷たさに反射的に筋肉がすくんでしまう。

つ、めてっ…!

ゴトン!ゴンッ

はずみで持っていたコンビニ袋が手から落ち、中の飲み物が大きな音を立て床に転がった。

コーラが!

思わずパッと下を見、途端、ぼやけていた頭のもやが晴れるように目の前がクリアになった。

は、え?

「おお、自分でほどくとは」

顎に添えられたままの氷のような指がぐいっと顔を上に向かせ直し、唇に柔らかなものがむちっと押し付けられた。

な、な、な???

キュヒョンの柔らかく厚めの唇をぐにぐにと食み、ほけっとゆるんだ唇の隙間にぬるりと舌が押し込められた。

あ、あ…

キスなんて、いつぶりだ?
去年の忘年会で確か、ゲームで負けて課長としたのが最後だった気が…。

あまりの出来事と、そもそもの疲れで脳が思考を放棄しだしてしまった。
しかし唇にひっつく柔らかい感触も、唇の内側を優しく撫でる舌の感触も、控えめに言ってもう、むちゃくちゃ気持ちいい。
思わず自身も舌を出して迎え入れてしまった。
お互いの舌が絡み合い、くちくちと卑猥な水音が耳に入る。

はあ、なんだこれ
きもちいい

おっさんの顔を両手で包み込み、その耳たぶを親指と人差し指で挟んでくにくにといじりながら、舌を口内深くまで差し込んだ。
と、

「っは、あっ…!」

仕掛けてきたはずのおっさんがぐわっと仰け反り、唇を離してしまった。
支えるキュヒョンの腕をぎゅうっと掴み、荒い呼吸を繰り返している。
し足りないよ、何してんの。
その細い首をささえグイッと続きをしようと引き寄せるも、彼はキュヒョンの胸に手を置き突っぱねていた。体を離そうとするかのように。
は、誘ったのはそっちだろ。

「手、なにしてんの」

イライラしてそう問う。
早く続きさせろよ。

「え、ちょ、ちょっと待て」

はあ?
そう訴えると彼ははぁはぁと荒い吐息を吐く唇を片手で覆い、頬を赤らめそっぽを向いてしまった。
何してんの、乙女なんか?
イライラして逆に彼の顔を掴みそのまま体を壁に押し付け、唇を覆う手を引き剥がすと強引に唇を塞いだ。

あ~なんだ、これ…。

キスってこんなに気持ちよかったのか?
唇がくっつくこの感覚だけで腰がぞわぞわと落ち着かなくなる。
口内へ舌を差し込むと彼の縮こまった舌を見つけたので捕まえて、思う存分自身の舌を絡ませ押し付けた。
と、ビクンっと彼の体が震え、舌を解こうと体をふるふると揺らす。
僅かな抵抗がむしろこちらの興奮に火をくべるって分かってるのかな?と思うようなささやかな抵抗だったので、もちろん舌はもっともっと絡めた。

はぁ、ひっ、ん、うんっ

吐息に混じった声と、唾液の絡まる音。
興奮は如実に身体に現れ、遠慮なく興奮したものを彼の太ももにグリグリと押し付けた。
と、彼の手がぐいっとキュヒョンの胸に押し付けられ、より一層の抵抗を見せた。
見せた、にも関わらず手の力が弱すぎてこれは果たして抵抗なんだろうか?
仕方なく唇を放すと彼は疲労困憊というていで呼吸も荒く、体もキュヒョンに支えられてやっと立っているような状態だ。
キュヒョンはそれをまじまじと見つめた。
何しろ腹が立っていた。
心が揺さぶられていて忙しなくて、それは間違いなく目の前の男のせいである。
そのことに腹が立ち、胸がぎゅっと苦しくて、まぶたの奥はとろんと熱かった。

「手、邪魔」

軽く睨みつけそう言うと、彼は切なげに眉根を寄せキュヒョンに視線をやった。

「うるさい…お前、なんなんだ」

いやそれはこちらの台詞…と思いつつ彼をとっくりと見やる。
先程まで死人さながらだった頬はつやつやと赤く、唇も血の色が通ってぷるりと赤い。

「おっさんこそなんだよ」

「お、おっさん?!おっさん?!」

銀色の髪を振り乱しながらぷりぷり怒る彼は、もはや死にそうな高齢者には到底見えなかった。
彼はなんなんだろう?
不思議に思う気持ちはあるが、一先ず、このやかましいつやつやと光る唇を塞ぎたい。
彼の手をぎゅっと握り顔を寄せると、慌てたように顔を逸らしてしまった。

「続きしたい」

顔を逸らしたことでむき出しになった耳の縁をつるりと舌で撫でると、ビクンっと仔ウサギのように体を震わせた。
薄くやわらかいささやかな耳たぶをくちくちと舌で弄ぶと、荒い呼吸が尖った吐息に変わり、吐息に僅かに嬌声が混じりこむ。
キュヒョンは自分に、こんなにも性に対する興奮があったことに、驚いていた。
彼の花のような匂いも、さらりと乾いたすべすべな肌も、吐息も舌も唇も、全てが性に溢れて見える。
耳下の柔らかな皮膚をちゅうっと吸うと、やわく桃色の跡が付いた。
かわいい。
もう一度、と唇を寄せると、

「や、めろっ…!」

泣きそうな声でそう叫ばれ、体がビリビリと痺れ唇は彼の肌に触れることが叶わなかった。
なんだこれ。

「もう、味見は済んだ!」

あじみ…あぁ、味見とか言ってたな。
こちらをキッと睨みつけているが、赤く上気した頬と赤く潤んだルビー色の瞳が相まって、控えめに言ってとても美しいし、何というかもう食べちゃいたい。

「だから…おいっキスやめろ…!」

「なんで?気持ちいいって顔してるけど」

とにかく続きがしたい。
ほだされてくれ。

「してないっ!」

「してない、けど…じゃあ…分かった。お前の血をよこせ」

顔を真っ赤にしながらもツンと顔を逸らして精一杯去勢を張ってそう言う彼を、不思議そうにぼぉっと眺めてしまった。 
血?
え…血?

「血って…なんで?」

やっぱり頭がおかしい人だったのでは?

はたから見たらとっくの昔からおかしな展開になっているのだが、キュヒョンの頭は一部が麻痺しているのかもはやそのことには気が付いていない。

「なぜか?」

彼はツンと顔を上に上げたままキュヒョンをねめつけ、片頬を上げ唇から除く尖った犬歯をちらりと見せつけた。
かわいい八重歯だ。

「私は、人の生き血を飲む者だ」

言い終わると彼は、フンっと鼻から息を吐きスっと伸びた鼻先を誇らしげにツンっと上に向けた。

人の、生き血を、飲む者?
やばい…頭がおかしい人か、もしくは麻薬中毒者だ…。

関わってしまったことをひどく後悔しつつも、彼を可哀想な人だと思う気持ちもあった。 

血を飲みたいだなんて…よほどのあれなんだ…。

「ちょっとならいいよ」

それに飲ませたら続きしていいんだろ。

キュヒョンの返答に彼はキョトンと目を丸くした。

「は?ち、血だぞ?!」

何驚いてんだよそっちがねだったんだろ。

そう思いつつも目を丸くした彼が随分かわいらしく見え、頬にちゅっちゅと唇を寄せた。
お、おいやめろ。
慌てる彼もかわいらしい。

「どうやって飲むの?歯でブスっていくの?」

それだとだいぶ痛そうだな。
でもさっきこれみよがしにチラ見せしてたしきっとそうだろうな。
唇から覗く彼の歯は確かにちょっと尖っていた。
しかしそう問われた彼の瞳の色がとろりと、より赤く光った気がした。

「お前、手の甲に傷があるだろう」

は?え?

見下ろした手の甲には確かに、今日誤ってコピー用紙で切ってしまった傷があった。
皮膚一枚を切っただけではあるが、そこは薄くぱくりと口を開いている。

「これ?」

「差し出せ」

ぴりっとした言葉に手の甲を差し出すと、彼は小さく笑みをたたえた唇を手の甲に押し当てた。





気付けば、キュヒョンは自室の玄関に体を横たえていた。

「いってぇ…」

硬く冷たい床から身を起こし、ぼぉっと周りに目をやった。
目に映る景色はグラグラとしているけれども自分の部屋であることは確かで、だらしなくも玄関で寝ていたようだった。

はぁ、なんだよこれ。

手の甲の傷はもはや無く、彼の匂いや、彼の感触、その他もろもろが体を満たしていた。

どこからどこまでが夢なんだよ。

コーラはビニール袋から頭を出し転がったままだ。
傷があったはずの手の甲の匂いをスンと嗅いでみる。
涼しげな花のような香りがした。

「はぁ…」

どのぐらい寝てたんだ?よっこいせと体を起こすと、体の節々が軋むように痛んだ。
怒りのような虚しさが胸をもやもやと埋めておりキュヒョンは忌々しげに息を吐いたが、それはまるで事後のため息のように甘く湿っていた。
電気を点けずにリビングを進み、カラカラとベランダに続く窓を開けると、空にぽっかりと浮かぶ月が目に入る。

「約束、守れよ」

月に愚痴っても仕方ないけど、でも約束したのに。
キンと冷えた夜の空気は肌を刺すが、さっきの彼の皮膚の冷たさとどこか近しいものを感じて、普段よりほんの少し、冬の冷気が好ましく思えた。
フーっと息を吐くと真っ白な息が尾を引き澄んだ夜空に溶けていった。
また会いたいなと、思った。






















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