社畜な僕の天使は君


毎年毎年分かっている事だけど、年度始めの忙しさは何度味わっても、きつい。

もはや30代も半ばを過ぎ、顧みなければ遠ざかる健康。
もちろんそれはイヒョクチェも例外ではない。というかむしろ不摂生をしている自覚がおおいにある。
そんなぼろぼろの体に年度初めからの怒涛の残業で、イヒョクチェのHPは0に限りなく近い。
しくしくと痛む胃のあたりをさすさすと撫でながら、人気の少ないとっくりと深く暮れた夜の住宅地を、ヒョクチェは一人歩いていた。

かぽ かぽ かぽ

今朝、目覚ましにと無理に飲んだ苦いコーヒーをスーツのスラックスにこぼしてしまった。
慌てて履き替え、そんなトラブルのせいで家を出る時間が10分ずれ込み、駅まで急いで走った。
慣れないことはするもんじゃない。
走ったせいで駅の階段のちょっとした段差に思い切りけつまずいてしまい、おそらくその時の衝撃で革靴の靴底が浮いてしまっている、気がする。
はぁ、とため息を一つつくも、答えるのは脳天気な靴音だけ。
ふふっと笑みがこぼれる。
早く、早くアパートに着きたい。
休みたい、のもあるけどそれよりも。

こころなしか勢いづけてアパートの外階段を登ると、シンと透き通った夜の闇に思いのほかカンカンカンと靴音が響いてしまった。
ヤベッと階段を登る速度を落とすも、いつものくせで彼の部屋のドアをちらりと見やった。
出窓に灯るオレンジ色のあかり。
起きてるのか寝てるのか分からないが、彼の存在を感じ心がほわっと暖かくなる。
階段から自身の部屋まで行くには、彼の部屋の前を通る。
少し歩くペースを落としてるのは、無意識ではない。
顔を見てないのはもうどのくらいだろうか。
寂しいけど、健やかな大学生な彼と社畜の僕の生活リズムが合わないのは、仕方ない。
かぽんかぽんうるさい靴を引きずり自身の部屋のドアを開け、ようやく一息吐いた。

はぁ、会いたい

帰宅して早々この一言が漏れ出るのはもうやばい自信があるけど、会いたいものは会いたい。
冷蔵庫を開け発泡酒を取り出し、かばんを放り出すと同時にプルトップを開け、強めの炭酸の効いたアルコール度数6%の液体を喉に流し込む。

あぁ…気持ちいい…

ネクタイをぐるりと緩め、ベランダの窓をからりと開け放ち、すうっと夜の闇を胸いっぱいに吸い込んだ。

会いたいな、会いたい。顔が見たい。

しばらく無かった感情に振り回されているのに、それが楽しいなんて不思議だ。

最後に会ったのは、確か先週の土曜日に、溜めてしまったゴミ袋を両手に持ち階段を駆け下りたゴミ捨て場でだった。

この地域のごみ収集はきっかり8:30までには必ず来てしまう。
今日こそ、今日こそ出さないと!
土曜日なのに8:00にアラームをかけた俺の努力を褒めてほしい。
寝癖もそのままに息を切らせ階段を駆け下りると、まさかそこに彼イドンへがいるなんてどんな仕打ちだ?
ひぐっと息をつまらせゴミ捨て場の手前で急ブレーキを掛けたイヒョクチェであったが、視線は目の前のドンヘに釘付けとなった。

ドンヘも寝起きなのか、ピョコンと後頭部の髪を跳ねさせ、見たことの無い分厚めのメガネをかけあくびをしながら、ゴミ捨て場にゴミ袋を放っていた。

え、かわいすぎる

朝の日差しが穏やかに彼に降り注ぎまさにこれは天使の再来。
心の声が聞こえたのかゆるんだ口元から声が漏れ出ていたのか分からないが、ドンヘは何かに気づいたかのようにくるっと勢いよく振り返ると、
階段の手前でゴミ袋を手にぼぉっと突っ立っていたヒョクチェとバチンと視線が合ってしまった。

「ぉわっ!」

びっくりしたのかぴょんと跳ねるイドンへ。
か、かわいいっ…!

「お、おはようございます」

ドンヘのあまりの可愛さにグラつきながらも慌てて挨拶をすると、
ドンヘはその分厚いメガネをガッと取り、髪をグシャグシャっと掻き回すと、

「…ぅす」

小さく会釈をし、そそくさとヒョクチェの横を通り過ぎ階段を駆け上がってしまった。
通りすがるその時、せっけんのような青い爽やかな香りも一緒に通りすぎた。
最高すぎてまぶたを閉じた。

よし、彼に会えたのは一週間も前ではあるが新鮮な記憶を保持している。
むちゃくちゃ…むちゃくちゃ可愛かった。
特に、メガネを外して髪をかき混ぜてすねたような挨拶をしてくれたところ。
正直、これを会えたと表現していいのかどうか微妙なところではあるが、
顔を見れて挨拶も交わせた…うん、立派な逢瀬だ。
逢瀬の思い出を辿るだけで発泡酒を一本空けてしまった。よし次行こう。

イドンへとの出会いはここから更に一年遡る。

3月のまだシンと冷え込む日曜日の朝。
例に漏れずとっぷり寝ていたヒョクチェを起こしたのはインターフォンのジリジリと鳴る呼出音だった。
眠たすぎて始めは居留守を決め込もうと思った。まだ寝ています。
しかし、母や姉からの荷物だったら…とはたと不安になった。
そうであった場合、受け取れなかったことのリスクの方がはるかに大きい。
「う~」
ふかふかと温かい布団からのそのそと這い出、手近にあったフリースを引ったくって羽織り、焦れるようにジリジリ鳴っている玄関までよたよたと急いだ。

「は、は~い」

ガチャっと扉を押し上げると極上の日差しがヒョクチェのまぶたを突き刺した。
うっまぶしっ!

「あら~お休みのところでした?申し訳ないことしちゃったわぁ」

ヒョクチェの部屋の前には見たことの無い母くらいの年齢の女性が立っていた。

え、だ、誰?

寝起きの働かないぽやぽやな頭で話を聞いていると、どうやら彼女の息子がこのアパートに引っ越してきたらしい。

「息子ったらこれが初めての一人暮らしでしてね。ほら、地方から出てきたものだから私も心配でしょ?でも同年代の方が近くにいらして安心したわぁ」

こちらつまらないものですが、と渡された引越し餅と女性の顔とをおろおろと目を泳がせながら、ヒョクチェはあいづちを打つのに必死だった。
息子、餅、地方、一人暮らし…。

「ほら!あんたもイヒョクチェさんに挨拶なさい」

話を聞いてるだけなのにもはやヘトヘトしてきてしまったヒョクチェは、女性が促す方へ機械的に顔を向けた。

「…イドンへ、です。よろしくお願いします」

女性の後ろに潜むように立っていた彼が少し前に出てきて、顎を突き出すようにそろっと挨拶をしてくれた。
その瞬間、脳天に雷が落ちたような凄まじい衝撃がヒョクチェに走った。

「あ、は、は…い……」

顔が好きとか、一目惚れとか、一言で片せないような強烈な感情が脳天から心臓、指先までビリビリと駆け抜け、あやうくお餅の入ったビニール袋が手から滑り落ちそうになった。
やばい、これはやばい。

何かと気にかけてもらえたらありがたいと一言残し、イドンへの母は息子を引っ張ってヒョクチェの前から去っていった。部屋は同じ階の隣の隣だった。

気付けばヒョクチェは部屋の真ん中で、膝にまだほのかに温かいお餅を抱えぼおっと放心していた。
先ほどの衝撃が未だに体を貫いたままで、うまく頭が動かない。

どうしよう、どうしたんだ?

イドンへ、という名前を口の中で呟く。すると、得も言えない多幸感とむずがゆさがぶわぁっと体を包み込んだ。

これはまずい気がする。

ヒョクチェはそわそわと粟立つ肌を撫で、空気を入れ替えようとベランダに続く窓をカラリと開け放った。
途端、キンと冷えた新鮮な冬の空気がヒョクチェの頬や鼻をひやりとくすぐる。もはやお昼とも言える時間ではあるが、外の空気はまだ朝の清浄さを保っており、澄んだ空気がゆるやかにヒョクチェの肺を満たしていった。

イドンへは母に連れられヒョクチェの前から立ち去る際、ちらりとヒョクチェを見やると、今度は頭を小さくぺこりと下げ、少しはにかんだような笑みを浮かべた。
その拍子に唇の端からほんの少し、八重歯がちらりと見えた。
その記憶をゆっくりと反芻する。
そしたらもう、だめだった。あっという間に落ちていた。

ヒョクチェは空になった二本目の発泡酒をペコンとへこまし、若干ふわりと気持ちよくなってきたため敷きっぱなしの布団に横になった。
まだ眠る気は無いが、今はこの感覚を体全体に染み渡らせたい。

天井の木目をぼんやりと眺めながら、思いを馳せるのはやはりイドンへのことだった。
気にかけてもらえたらありがたい、の言葉通り気にかけるつもりでいたのだが、如何せん社畜のヒョクチェ。
そもそも顔を合わすことすらなかなか無い。
むしろ…、とヒョクチェはこれまでの記憶をなぞった。
イドンへの方から、インターフォンを鳴らしヒョクチェの部屋を何度か訪ねてきてくれた。
要件はこれまた可愛らしくて、母から送られたキムチが食べきれないから、とか、母が惣菜をたくさん作り置きしていったからお礼に食べて欲しい、などなど。

…うん、俺の方が助けられてるな。

イドンへの母のキムチもご飯もとてもとても美味しくて、誘われるままにイドンへの部屋へ出向き、お腹いっぱいたくさんご馳走していただき、幸せ気分でお礼を言い部屋へ帰り…。
幸せな記憶に足をパタパタしてしまう。
美味しいご飯はもちろんのこと、その美味しいご飯をおすそ分けしてもらえたことが幸せで幸せで仕方ない。
はぁ…と吐息を零しながらその時を思い返す。
美味しい食事と、その食事越しに眺めるイドンへ。
イドンへは初めての時のように微笑んでくれることはほとんど無くて、顔を合わせてもあまり目は合わないし、微笑んでもくれない。
でもそれでいい。
しょっちゅう天使に微笑まれたら、頭が変になってしまう。

ただ、なぁ。

ただ、ご飯をご馳走になって、家を出る時に少しだけ、なーんとなく寂しそうな雰囲気は感じていた。
ご馳走になったのでお礼として食器を洗い、ありがとうして帰る時、ドンヘは必ずドアの前まで来てくれて、モタモタと靴を履くヒョクチェをじぃっと見つめる。
ご馳走様でした、またね、そう話す時ドンヘは少しすねたように下を見、吐息だけでウンと返事をする。
あぁ、寂しそうだな、と毎回思う。
胸がぎゅっと掴まれたように息がそっと詰まる。
でも、それは俺だからじゃない。
初めての一人暮らしがきっと人寂しくさせてるだけだ。
だから、勘違いするな。
ヒョクチェは毎回そう自分に言い聞かせている。
そうしないと、変なことを考えてしまうかもしれないから。

何だか胸がいっぱいで、酔いも心地よく体を包んでくれて、うとうとしてきた。
このまま眠りたくない、でもすごく気持ちが良い。
ヒョクチェのまぶたがうつらうつらと重たくなってきた、その時。

ジリリリリリ

ん?

この時間に似つかわしくない呼出音がヒョクチェの頭を呼び戻す。

この時間に鳴るなんて、もしかして…?

ヒョクチェはガバッと身を起こし、数歩先にある玄関へ一足飛びに急ぎ、相手を確認もせずにドアを開けた。
はたしてそこにはやはりと言うべきか、会いたくて仕方なかったイドンヘがどこか所在なさげに佇んでいたのだった。

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