風がふくらむ



生ぬるい風がカーテンを揺らし、寝転んだ僕の額を撫でる。
風の匂いがいつの間にか、夏のそれに変わっていた。


「俺、決めたよ」


目をつぶる僕の耳に、あいつの声が流れ込んでくる。


「母さんに付いていく」


あいつの鼻にかかったような甘い声は今日もまっすぐで、
その決心をもう誰もくつがえせないことが、分かった。


「そっか」


風に揺れるカーテンをぼんやりと眺めながら僕はただ、あいつから背をそむけることしかできなかった。






「ヒョクチェ!」


この狭い島で、家が隣同士の同い年なんて滅多にいなかった。
隣と言ってもまあ、10mは離れてるけどでも隣は隣。
だから半ば運命的に、僕らは仲良くなった。


「…おー」


毎朝玄関先まで迎えに来てくれるドンヘ。
小学生の頃から変わらぬ習慣で、高3になった今もそれは変わらずそのままで。
だからずっと、この日常が続いていくことがどこか当たり前のことのように思っていた。
ずっと、僕の隣にはこいつがいるもんだと。


「うちさぁ、離婚するんだ」


突然のドンヘの言葉に驚き思わずドンヘの方を見ると、ドンヘはただまっすぐ前を見つめていた。


「俺が高校卒業するまでは、待ってくれるみたいなんだけどさ」


ドンヘんちの夫婦喧嘩は、10m離れたうちまで頻繁に聞こえていた。
ドンヘが、オンマとアッパを止める声も。


「…そっ、か……」


かける言葉が見つからず、そんな言葉しか僕の口からは出て来なかった。
じっと前を見つめるドンヘの横顔にはなんでか悲しみもつらさも浮かんでなくて、だから余計にかける言葉が見当たらなかった。
ドンヘ越しに見える朝の海は太陽の光をキラキラと反射させ、それがなんだか今日はすごく眩しくて、僕はそっとあいつから目をそらした。


「どっちに付いていくか…決めないといけなくて」


「どっちって?」


「おんまか、あっぱ」


「あぁ…」


当たり前だろ、僕は何を聞いてんだ


「その…ここには残んだろ?」


ドンヘはその長いまつげをまとった瞳をぱちぱちっとまばたきさせ、目線を下にやった。
まるで泣かないように、こらえるように。


「…分かんない」


下げていた瞳が吸い寄せられるように僕に向けられる。


「分かんないんだ」


ドンヘの瞳がぐらっとゆらぎ、その瞳に初めて悲しみの色が浮かんだ。
僕は思わず、息を呑んだ。
そのあまりの美しさに。






「ひょく…ちぇ……」


僕の頬にあいつの汗が落ちる。


初めはただ痛いばかりだった。
痛くて苦しくて、早く終われって思ってた。
なのに回を重ねるごとに、ぞわぞわとくすぐったいような快感が生じ、今では…。


熱をはらんだ唇が僕の唇に押し当てられる。
不器用なその行為が、逃れようもなく僕の情欲を駆り立てる。


「もっと強くして、いいよ」


「…ん」


僕の太ももとドンヘの太ももが、汗でひっつく。
足を大きく開かれ、あいつは僕の腰を抑えるともっと奥まで入ってきた。


「う、あっ……!」


思わず声が出てしまい慌てて腕で口を覆う。
その腕を取られ、むき出しになった唇を塞がれた。


「んぅっ………んっ………」


こいつ、いつからこんなにキスうまくなったんだ?


快感と暑さでボーッとしながらも頭の端でそんなことを思った。
こわいほど気持ちがいい。


「んっ……ドン、へ……んぅっ………」


ドンヘが動くたび、おなかの奥がうずき声が漏れる。


「あ、あっ……!」


グリッと気持ちいいところにあたり、思わずドンヘの腕をぎゅっと握りしめた。
そのドンヘの腕は前とは比較にならないほど厚くなってて、僕がよほど掴んだってなにしたってびくともしなかった。
大人になっていっている。
僕はそれを、喜んでいいのか、受け入れていいのか、いつも悩むんだ。
だってこの関係の、リミットが近づいてきてるって、鐘を鳴らされてるようで。








「じゃあ俺と付き合ったらいいじゃん」


そう、僕たちが中学三年生の時、帰り道でそう言われたことを鮮明に覚えてる。
並んで歩いてたはずなのに気付くと横にドンヘの姿は無かった。
振り向くとドンヘは道端で立ち止まっていて、その背には燃えるように赤い夕日があった。
逆光でドンヘの表情は分からないし、夕日が僕の目を刺して痛かった。


「何してんだよ」


目が痛いのに、ドンヘから目をそらせなかった。
今目をそらしたらいけないような気がして。


「じゃあ、俺と付き合ったらいいじゃん」


そう言ったドンヘの声は少し震えてて、その手はギュッときつく握りしめられてた。
ドンヘが本気で言ってるって、なんで分かってしまうんだろう。
茶化せないじゃないか。
僕も、本気にしてしまうじゃないか。


「…おう」


僕の声に、ドンヘの体がビクッと震えた。
表情が見えないことが悔しい。
ドンヘのどんな表情も、この目におさめてたいのに。






島には小学校までしかなかったから、小学校を卒業してからはドンヘと一緒に本土の中学校に通った。
入学式の時、そんなにたくさんの同い年の子供を見るのは初めてで、本当にワクワクした。
知らないやつばっかりで緊張もしてたにはしてたけど、僕にはドンヘもいるし、楽しみな気持ちで胸がはちきれそうだった。


元々走るのは得意で、小学校の中ではダントツに足が速かった。
でも中学校にはたくさん生徒がいたし、僕より足が速いやつなんてわんさかいるだろうと思ってた、けど。
向かえた初めての中学校の運動会の日。
運動会が、こんなに楽しいなんて…!
練習の時からもう、みんなの熱意が小学校の時とはかけ離れててすごくて、ずっとドキドキしてた。
本番当日は…あぁ、すごくすごく楽しかった。
僕の特技が活かされることも、みんなで何か一つのことを頑張ることも、全部が全部楽しかった。
でも何より。
一番最後の、学年対抗の選抜リレー。
もちろん僕は選ばれたし、ドンヘも。
僕は最終走者で、ドンヘは僕の一つ前。
一年生の中では僕が一番足が速くて、すごく、誇らしい気持ちだったことを覚えてる。
たくさん練習をして挑んだ本番当日。
三年生がどんどんリードしてて、その後を続く二年生と一年生。
つながれていくバトン。
見てるみんなの歓声がすごい。
ついにドンヘの番。
こいつこんなに、速かったっけ?
バトンを受け取った瞬間弾かれたように走って、あっという間に二年生を抜かし、三年生までの距離もどんどん縮めてる。
一年生の歓声がすごく大きくて…頭がふわふわする。
ドキドキしながらスタート位置に並んだ。
ドンヘが必死に走ってくれてる。
もう少しで、バトンが来る。
とその時、ドンヘの体がぐらりと揺らいでその瞬間ドンヘがこけたことが分かった。
会場の悲鳴とため息が、僕の耳に届く。
二年生にも追い抜かれ、でもドンヘはすぐに立ち上がって僕に砂だらけのバトンを渡してくれた。
あとはもう、僕が走るだけ。
最終走者は200メートル。
ただ前を、見つめた。
あっという間に二年生を追い抜いた。
うるさすぎる歓声がふっと聞こえなくなり、三年生の背中しか見えなくなる。
いける、抜ける。
どんどん距離が縮まる。
手に持ったバトンが、汗でぬるぬるする。
最終コーナーで目の前に、三年生の背中が。
夢中で足を動かし気づけば目の前には、白いゴールテープだけがピンと張られていた。
倒れ込むようにゴールテープを破った僕の視界に一番に飛び込んできたのは、
涙で顔をぐしゃぐしゃにしたドンヘだった。
足が止まらなくてドンヘを抱きしめながらそのまま思い切り転んでしまった。
あ、ようやく音が…戻った。
はちきれんばかりの歓声と、拍手と…目の前のドンヘの嗚咽と。
よかった、と思った。
ドンヘのために、勝てて良かったとぼんやりそう思った。


結局優勝は三年生だった。
校長先生の長い祝辞の間、僕は足が痺れふらふらしていたけど、隣でドンヘがずっと手をつないで支えてくれていた。
それから少し、僕たちを取り巻く環境が変わった。
運動会の翌週から、僕にもドンヘにもピンクだったり薄いブルーだったりの色とりどりの小さな手紙たちが、靴箱の中や机の中に忍ばされ届くようになった。
開くと中にはまるっこいかわいい文字で端的に言うと僕のことが好きだって書いてあった。
初めてもらったときはびっくりしたけど嬉しくて、帰り道ドンヘに見せたのにあまり反応は示してくれなかった。
ドンヘには僕よりも更にたくさんのそのお菓子みたいな甘ったるい手紙たちが届いてるようだったけど、
ドンヘはいつもそのままかばんにスッと入れてしまってそれからどうしてるのかは分からなかった。
正直言うと、クラスの女の子の名前ですらあやういのに、他のクラスの女の子となるとちんぷんかんぷんで、むしろそれよりも友達と走ったりゲームしたりこっそり買食いすることのほうがもっともっと楽しくて、手紙をもらったからってどうこうすることもなかった。


でも二年生の冬、僕に初めて彼女ができた。
隣のクラスの話したこともない名前も分からない子たちに呼び出され、僕のことが好きだと言われた。
周りの二人はキャッキャとはやしたて、どうやら僕のことを好きなのは真ん中の女の子のようだった。
初めて見る子だったけど、はにかんで照れてるその顔が可愛いなと思い、付き合ってほしいと言われこくんとうなずいた。


帰り道、そのことをドンヘに報告するとドンヘは怒ったように黙りこんでしまった。


「え、おい、待てよっ…」


僕を置いてどんどん速く歩くドンヘ。
怒ってる?


「なぁって…!」


なんとか追いつきドンヘの手首を掴む。
ドンヘは止まりはしたもののこっちを向いてはくれない。


「なんだよ……怒ってんの…?」


胸が、ざわざわする。
どうして怒ってんの?
こっち見ろよ…。


「え、あの子のこと、もしかしてお前好きだった…?」


ならやめる、付き合うの止める。
だから、だから…!


ドンヘは僕に手首を掴まれたままそっぽを向いたままだ。


「じゃあ付き合うのやめるよ、ごめんって…」


思わず泣きそうになり、ドンヘにそうすがる。
そんなつもりじゃなかったんだ…。


ドンヘは掴まれていた手首をふりほどくと僕のことをじっと見つめてきた。
まるでにらみつけるように。


「…もう、一緒に帰らない」


ドンヘはそう言うと僕を置いてパッと駆けていってしまった。
僕の足は地面に根付いてしまったかのように動かなくて、僕から去っていくドンヘの後ろ姿をただ見つめることしかできなかった。



その子とは一度、中学校のある町の隣街に映画を見に行った。
街へ向かうバスを待ってる間なんとか話題を見つけて話しかけるも、その子はとても声が小さくて、聞き返す度にもっと声が小さくなってしまって、僕はどうしたらいいのか分からず途方にくれた。
時間になってもバスは来なくて、冬の冷たい空気で鼻の奥が痛かったことを覚えている。
なんの映画を見たのかは、なぜだかちっとも思い出せない。
その子とデートしてる間中、ドンヘのあのまなざしを思い出しなんだか苦しかったし、後ろめたくてはやく帰りたかった。
その子とは結局、それきりになってしまった。




「別れたよ」


今日も僕を置いて帰ろうとするドンヘの机のそばに立ち、そう声をかけた。
彼女ができたと報告してからというもの、変わらず毎朝迎えに来てくれるもののブスッと無愛想だし話しかけてもそっけないし、
そして宣言通り一緒には帰ってくれなくなった。
僕を置いて帰るドンヘの後ろ姿を毎日眺め、胸が締め付けられるように痛かった。
だから別れたことを報告するとき、思わず声が弾んでしまった。
これでまた前みたいに戻れるかと思って。


「…ふぅん」


なのに、ドンヘはそっけなくそう言うとカバンを掴み席を立ってしまった。
え、なんだよ…


「おい、別れたんだぞ」


ドンヘの背中にそう投げつけるとドンヘはピタっと止まり顔を少しこちらに向け、


「別に…俺に関係ないし」


そうそっけなく呟いた。


…は?
は、あんだけ、え?
頭の中でぐるぐる言葉が溢れぎゅっと手を握りしめた。
ドンヘはそんな僕を無視すると、すたすたと歩いていってしまった。


もう、もうだめなのか?


グッと熱いものが喉までせり上がり見つめるドンヘの背中がグラッと揺らぐ。
と、


「…はやく来いよ。帰るぞ」


ドンヘはそっけなくそう言い放つと教室から出ていってしまった。
僕はグッと顔を拭うと走ってドンヘを追いかけた。



本土から島への5分間の船。
お小遣いで買ったアイスキャンディーがちょうど食べ切れる時間。
ソーダの甘く冷たい液体が喉を潤していく。


おっちゃんにありがとうを言いドンヘと一緒に船を下りる。
隣に、ドンヘがいる。
それが、嬉しい。


「なー」
「うん」
「なにした?」
「えー?映画見に行った」
「どこに?」
「どこにって、本町のイオンしか無いじゃん」
「自転車で?」
「バスだよ。自転車って、何時間かかんの」
「ふぅん」


つかず離れずの距離感で交わす、たわいもない会話。
それがすごく嬉しい。


あっという間に家に着き、じゃあっと別れようとした時、


「今日、おまえんち行く」


声に驚きパッと振り向くと、ドンヘはじっと僕を見つめていた。


「おお、分かった」


そう返事をし、ただドンヘの思いつめたような視線だけが気にかかった。
僕は制服を脱ぎ捨てパーカーとジーンズに着替えると、ベッドにごろんと横になりぼおっと天井を見つめた。


仲直りできた
よかった


ドンヘがなににあそこまで腹を立ててたのかはよく分からないけど、きっと僕があいつを怒らすようなことをしてしまったんだろう。
理由もなく怒るようなやつじゃない。
ずっと張り詰めていたものがほどけたことに安心し、僕はそのままうっかりまぶたを閉じてしまった。



「ん………」


唇の違和感でまどろみから浮き上がる。
ゆるく瞳を開けると、目の前にドンヘの顔が。


「ドンヘ…?」


パッと僕から体を離すドンヘ。
あ、寝ちゃってたのか僕。
ぐーっと伸びをしベッドから半身を起こす。


「ごめん、寝てた」


ぼやける目をこすりながら、ドンヘの隣に腰を下ろした。

























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