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エスパニョールの伝説 vol.15 フリアン・アルカス

このnoteはRCDエスパニョール財団が2021年に発売した[HISTORIA DEL RCD ESPANYOL 1900-2020](カタルーニャ語版)から引用しています。

フリアン・アルカス・サンチェス
1926年1月7日生まれ
ベレス・ブランコ出身
2001年1月12日没(フィゲレス)
選手時代
ポジション:フォワード
公式戦:234試合
ゴール数:100
1946~1947年、1948年~1958年在籍
監督時代
公式戦:25試合
1961~1962年在籍

戦後のフットボールのヒーローはほとんどがスペイン人でした。当時の乾いたパンと配給カードで過ごすという過酷な生活では、自給自足以外に他に選択肢は残されていなかった。アルカスはこの血統に続きました。ウニオン・アトレティカ・オルタではキャリアをスタートし、1947年1月に到着したエスパニョールは彼の輝かしいスポーツキャリアの舞台となった。

彼はボールを扱う名手ではなく、技量が目立つこともなかったが、アルカスは常に白と青のフォワードにポジションを見つけた。彼のゴールに対する生来の直感は、どんなコーチにとっても欠かせない存在となった。カルボを手本とし、ポジションを引き継いだアルカスは、公式戦で100ゴールを決めた初のエスパニョールの選手となった。その中には、エスパニョールのリーグ通算1000ゴールと、1955-56シーズンに永遠のライバルをカップ戦から排除したレス・コルツでの歴史的なポーケルも含まれる。彼のリーグ得点記録(82ゴール)を超えるまでに23年かかったということは、彼の得点者としての次元の高さを証明している。

ゴールや記録以上に、アルカスは人格者だった。反抗的。不屈の勇気。そのすべてが、白と青のユニフォームに包まれ、忍耐強いファイトで何度も無敵になっりました。アルカスがピッチにいれば、勝利のチャンスは常にあったし、どんなに困難でも勝つチャンスはありました。だからライバル達は怖かった。「サリアの虎」と呼ばれるアルカスがいつもそこにいたから。ゴールを決める準備はできている。諦めることはなかった。

彼は強い個性を持ち、決してそれを捨てなかった。1957-58シーズン終了前にクラブに別れを告げた日も、1961-62シーズンにベンチからエスパニョールを救うという挑戦を引き受けた時もそうだった。彼は成功しなかった。とはいえ、彼は最高の人物の一人として白と青のイマジネーションの中に残っている。これほどの反抗心と色への愛が報われないはずがない。

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