見出し画像

八田與一について

ニュースを見ていたら、台湾の企業が熊本に工場を作るとの事です。
台湾は親日的な国で知られていますが(敢えて国と呼びます)、これは日本が台湾を統治していた時代に、多くの日本人が台湾の発展に尽力してきた結果だと思います。

そんな訳で今日は、今なお台湾で語り継がれ慕われている日本人、八田與一(はったよいち)のお話を書きたいと思います。

八田は、1886年(明治19年)に石川県で生まれました。東京大学を卒業後、台湾総督府内務局土木課の技手として就職しました。
28歳の時に、当時着工中であった桃園台地に桃園埤圳(ひしゅう)を作る水利工事を任されましたが、これを成功させて高い評価を受けました。
※圳は用水路の事です
これは今日でも桃園台地を潤して、そこに住む人々に多くの恩恵を与え続けているそうです。

2年ほど経った頃元の上司に呼び出され、水力発電用ダムと米の増産用灌漑ダムの適地を探す依頼を受けました。折しも日本ではコメ不足が深刻で、米騒動が起き、食糧増産が急務となっていたのです。そこで八田は、大正6(1917)年から3年間、台湾南部の嘉南平野の調査と測量を行いました。
ちなみにこの年、31歳のときに外代樹(とよき)(当時16歳)と結婚します。

嘉南平野は、台湾全体の耕地面積の6分の1を占める広大な土地です。気候も亜熱帯性気候で年に2、3回もの収穫を期待できる地域でしたが、雨が降れば川は氾濫し、日照りが続くと川まで干上がるという土地でした。
八田はこの嘉南平野に安定した水供給をする、灌漑施設を建設することによって、この地を台湾の穀倉地帯にできると考えたのです。

台南市の北を流れる官田渓の上流の烏山頭(うさんとう)に当時東洋一の規模のダムを造り、そこから平野全体に給排水路を張り巡らせるという壮大な計画を立てました。満水時の貯水量は1億5,000万トン。これは黒部ダムの75%に相当します。
予算は当時の台湾総督府の年間予算の30%にも及んだといいます。

そして1920年(大正9年)9月1日に起工しました。現場には作業員やその家族2,000人が住み、学校や病院までも作られ、地元民からも感謝されました。
八田の子供達も台湾人の子供と一緒にこの学校に通いました。

先行して進められていた烏山嶺トンネル工事で、突然噴出した石油にカンテラの火が移り、爆発事故が起きてしまいます。この事故で、日本人、台湾人あわせて50余名の死者が出ました。
八田は一軒一軒遺族のもとを訪ね、台湾人遺族には台湾式の弔意をあらわし、心から哀悼の意を伝えました、この事で文句を言う遺族は無く、事故に負けずに工事を完成させて下さいと言われました。

八田は工事が終わりに近づいた頃、工事で亡くなった人々とその遺族ら134人の名前を刻んだ「殉工碑」を建てましたが、そこには日本人と台湾人の名前が分け隔てなく、混ざって刻まれていました。当時では考えられない事でした。

更に八田を困難が襲います。工事開始から丁度3年後、大正12年9月1日、関東大震災が発生します。これにより烏山頭ダム工事への補助金も大きく削られ、八田は職員、作業員の半数を解雇せざるをえない事態に追い込まれます。この時八田は、有能な者はすぐに再就職できるであろうと考え、有能な者から解雇しました。もし能力が無いものを解雇すると、家族ともども路頭に迷ってしまうと考えたからです。
しかし、解雇するだけではなく、再就職先の世話もしました。再就職先に掛け合って、今よりも良い給料を出させるようにしました。
そして工事が元に戻った時は、最優先で再雇用する約束もしました。

やがて1930年(昭和5年)3月、10年の歳月をかけた烏山頭ダムと嘉南大圳(かなんたいしゅう)が完成しました。嘉南大圳の総延長は16,000km、実に地球を半周する長さになりました。
15万ヘクタールに張り巡らされた、緻密な測量でわずか1%の勾配で作られた16,000kmにも及ぶ水路に水が満たされました。

画像1

しかし、ここから農作物の増収が実現するには、更に6年の歳月を要しました。稲作は工事前の6倍、サトウキビは2倍の収穫量になりました。
この功績で、1939年には技師として最高の官位である勅任官待遇を与えられます。

八田は、台湾がさらに発展していくためには、現地人技術者の養成が不可欠だと考え、自ら奔走して台湾で最初の民間学校として「土木測量技術員養成所」を台北市内に作りました。この学校は現在も「瑞芳高級工業職業学校」として、毎年多くの技術者を社会に送り出しています。

1942年5月、八田は南方開発派遣要員としてフィリピンに向かいますが、米潜水艦の雷撃で撃沈され、死亡しました。
日本敗戦後の1945年(昭和20年)9月1日、日本人が台湾から退去しなければいけなくなると、妻の外代樹も夫の八田の後を追うようにして烏山頭ダムの放水口に身を投げて自殺しました。
外代樹にとっては、烏山頭ダムが與一そのものに思えたのでしょう。

戦後、台湾では日本人の銅像は全て撤去されましたが、八田與一の銅像だけが唯一残りました。この銅像は嘉南の農民たちによって、隠され守られてきたのです。昭和56年にようやく台湾政府の許可を得て、烏山頭ダムの傍らに再現されました。ここには、與一と外代樹のお墓もあり、今でも手厚く葬らています。
このダムを建てた八田與一の功績に関して、台湾の人々は非常に感謝しており、教科書に載るほど尊敬されています。

最後に元台湾総統・李登輝氏の言葉を載せたいと思います。

台湾に寄与した日本人を挙げるとすれば、おそらく日本人の多くはご存じないでしょうが、嘉南大圳を大正9年から10年間かけて作り上げた八田與一技師が、いの一番に挙げられるべきでしょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?