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サン・ファン・バウティスタ号と支倉常長(最終回)

3か月の航海の後、一行はメキシコ太平洋岸のアカプルコに到着しますが、
この航海中にソテロとビスカイノの対立が激しくなり、上陸後ビスカイノは別行動を取ります。
先にメキシコの副王に謁見したビスカイノは、幕府はカトリックの弾圧を強め、江戸で 20 人以上の信徒を処刑したことや常長一行の使節は宣教師派遣の嘆願の為ではなく、貿易が目的である事を伝えます。

1614年3月に陸路メキシコ市に入った一行は、副王に謁見して政宗の書状をソテロが読み上げました。
「キリスト教を領内の仙台藩に広めたいので、 3 人の家臣をメキシコに派遣した。3 人のうち支倉常長は欧州まで向かわせる。宣教師の方々が仙台藩に来られることを願う。また、メキシコの航海士・水夫を頼りにしており、今後は船で自由に往き来できるようにして欲しい」と書かれていました。
しかし、先にビスカイノの報告を受けていたメキシコ副王の態度は冷たく、
6月になると常長一行は、大西洋を渡る以外に進む道はないと信じ、スペイン艦隊に乗船しペインに向かいました。
常長一行の欧州組は、宣教師らを入れてもをわずか30人程度でした。

12月にようやくスペインの首都マドリッドに入りました。
マドリッドでスペイン国王フェリペ三世に謁見できる日を待ち続けましたが、スペイン側では常長一行の取り扱いに困っていました。
というのも宣教師などを通じて、ある程度日本の状況を知っており、
「日本の最高権力者は家康であり政宗ではない」
「家康はメキシコとの交易を望んでいるが、カトリックの布教は望んでいない」
「常長一行が日本を発つ前に、将軍秀忠はカトリックの弾圧を実行し信者らを次々と処刑している」
「交易と宗教分離政策をとる家康・秀忠父子に対して、地方諸侯の政宗がカトリックの布教ができるわけがない」
「家康が使節派遣を認めたのは交易に限ってのことで、布教を行えば政宗をつぶすはずだ」
こういった分析がされていたのです。

翌年1月、ようやく常長らはスペイン国王フェリペ三世に謁見する事ができました。
常長は「国王陛下の御前でカトリックの洗礼を受けたい」と伝え、政宗からの書状と交易や布教を求めた条約案を渡しました。
これに対してフェリペ三世は、洗礼は問題ない、交易についてはいずれ話し合う、寺院を設置する費用は出せない、日本に新たな司教を置くことは検討する、と回答しました。

この時、常長が述べた挨拶の中に、次のような言葉が記録されています。
「奥州国王(政宗)は、その位と領土をスペイン国王陛下に差し上げ、親交を結びたい」
常長がこのような言葉を言うわけも無く、この時常長の言葉を通訳していたのは、あのソテロです。
ソテロはどうせスペイン語のわからない日本人たちの事だ、自分が司教の座を得る為には手段は選ばないという事だったのでしょう。

翌月1615年2月17日常長は、聖サンフランシスコ会跣足派(せんそくは)尼僧院において、時の宰相レルマ公を教父にスペインの国王王族、大貴族列席のもと、洗礼をうけました。
洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ・ハセクラ。

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同年10月、常長一行はローマに到着し、11月3日にローマ法王パウロ五世に謁見しました。
法王側でも日本の情報は入手しており、幕府がカトリックに弾圧を加えている事を知っていました。
ソテロは、いかに政宗がカトリックに理解を示しているかを力説しますが、これでは説得力がありません。
またイエズス会は、過去にイエズス会がローマ法王との謁見に成功した天正遣欧使節(伊東マンショとか千々石ミゲルのやつ)をまねていると、フランシスコ会のソテロを批判しました。
結局法王側も政宗の狙いは交易による利益であり、いずれは幕府にしたがってカトリックの弾圧をするだろうと疑い、スペインに続いて、ローマ法王との交渉も条約を結ぶには至りませんでした。

明けて1616年1月、失意の常長一行はローマを出発し、再びスペインに向いますが、スペイン側はマドリッドに寄ることを拒絶します。
しかしこの後もセビリア付近にとどまり、スペイン国王フェリペ三世に交易許可を願う書状を書きました。
こうして何の成果も無いまま、メキシコに渡り日本から迎えに来たサン・ファン・バウティスタ号に乗り、フィリピンのマニラに着きました。

迎えにいった乗組員 210人のうち約半数が航海中に死亡したと言います。
ここで船を売り払いました。サン・ファン・バウティスタ号の記録はこれ以降どこにも出てくることはありません。
こうして日本へは1620年9月20日頃到着します。
実に7年にも渡る苦難の旅でした。

すでに日本では禁教令が発令され、キリシタンは弾圧されていました。
26日には政宗と会い、二人きりで話をしましたが、内容は一切残っていません。
政宗も幕府には、「支倉帰国」とのみ報告しただけでした。

渡欧中に敬虔なクリスチャンとなっていた常長は、棄教する事もできず、1622年7月1日死去します。享年52歳。
一説には最後は自ら食を絶って、半ば自殺のようだったとも言われています。(キリスト教徒なので切腹できない)
政宗に使え、二君に相まみえずという忠義の侍が、キリスト教というもう一つの主君を持ってしまったのです。
主君と主君の命ずる禁教の間でどれだけ苦悩したでしょうか。
常長は、帰国後は一切の記録を残さず、妻と子にキリスト教を伝え、一旦歴史から消えました。

その後ソテロは、キリスト教禁止下の日本に潜入を図りますが捕らえられ、今度も政宗が助命嘆願しますが聞き入れられず、大村(長崎県)の放虎原で火あぶりに処せられます。享年49歳。

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それから250年後の1873年、鎖国を解いた日本は、岩倉具視を全権として欧州使節団を派遣します。
ベネチアに着いた岩倉達は、あなた方は日本からの2回目の大使ですと伝えられ驚きます。
欧州で常長らの遺した事跡に出遭い、日本ではほとんど忘れられていた常長達の存在が再び注目されることとなったのです。
250年以上も前に日本の外交使節がスペインで外交交渉を行い、ローマまで派遣されていたという衝撃的な事実を知り、常長達の足跡を目の当たりにして、岩倉たちは大いに勇気づけられたそうです。

最後に、日光東照宮には全国の大名が寄進した灯篭が並んでいます。
ひときわ目立つのが、政宗が1618年に寄進した異様な形の「南蛮鉄灯篭」です。

南蛮鉄灯篭


当時貴重だったポルトガルの鉄を輸入して作ったものですが、家康の霊廟を向いた側に逆卍の模様が刻まれています。
伊達家は「竹に雀」か「九曜紋」を使います。
実はこの逆卍、支倉家の家紋なのです。
これを寄進した時点でまだ常長は帰国していません。
政宗はどういう想いで、この家紋を刻んだのでしょうか。

                              おしまい


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