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洞爺丸沈没 最終回(全9話)

洞爺丸は座礁には成功しましたが、船は傾いたままで、このままでは横倒しになる危険性がありました。

SOS

22:40
「SOS洞爺丸。本船は函館港外青灯台より267度、8ケーブルの地点に座礁せり」港内のすべての船に対してSOSを発信しました。

乗客たちは避難するために、甲板を目指しましたが、大きく傾いているために外に出られない人や、避難をあきらめる人もいました。また、甲板までたどり着いた者も、あまりのうねりの凄さにどうする事もできず、引き返す有様でした。

23:43
浸水により両舷停止状態になっていた十勝丸は、22:45に機関員総員退避を行いましたが、右舷への傾斜が大きくなり、積んでいた貨車が横転し、右舷側に横転沈没してしまいました。

8分前に沈没した北見丸と同様の最後でした。

乗組員76名中59名が亡くなりました。

同時刻、浸水がが増えて機関が停止した日高丸は、積載車両が右舷側に横転し、十勝丸同様に右舷側に横転沈没しました。

乗組員76名中56名が亡くなりました。

洞爺丸の最後

22:50
洞爺丸
は右舷側への傾きが大きくなり、三等前部船室から浸水が始まりました。海水が次から次へと流れ込み、傾斜は45度近くになりました。

乗客は左舷の階段に殺到し、押されて倒れるもの、踏みつけられるものが続出し、地獄絵図となりました。やがてかろうじて稼働していた発電機も止まり、船内は暗闇となり、そこかしこから念仏の声が聞こえるようになりました。

そして間もなく、わずかに船を支えていた左舷の錨鎖が切断され、船体は横倒しになりました。

悲鳴が上がりましたがすぐに聞こえなくなり、念仏の声も聞こえなくなりました。

乗客は救命胴衣を着ていたので、流入した海水に乗って出入口の近くや割れた窓の傍にいた運のいい人は、生死にかかわらず外の海に流れて行きました。

甲板に逃れていた人たちも、真横になった甲板には立っていることができず、舷側の手すりにぶら下がっているような状態でした。そこには絶えず大波が打ち付けており、次々と流されて波間に姿を消してゆきました。

真っ暗闇の中、小山のような大波が次から次へと押し寄せていましたが、そこにはおびただしい数の人が浮いていました。救命胴衣を着けていても強大な波の力で海の底まで引きずり込まれ、息が続いているうちに水面に浮かび上がる事ができた人だけがかろうじて生きていました。

洞爺丸の乗客達は、波と風に押されて七重浜へ向かって流されて行きました。

その先に貨物船第六真盛丸が座礁していました。第六真盛丸は室蘭に向かう途中、台風を避けるために函館港に避難し、被害にあったのです。

洞爺丸とほぼ同じタイミングで走錨が始まり、一緒に七重浜へ向けて流され、運良く傾かずに座礁する事ができたのでした。

第六真盛丸の船員が、暗闇の中で救命筏の灯りを見つけました。船長が探照灯の点灯を命じると、暗闇の中に夥しい数の人が浮いているのが見えました。

決死の覚悟で舷側からロープを垂らして、何人かを助け上げましたが、その中に洞爺丸の二等機関士がいたため、洞爺丸の沈没と乗客1200名が遭難した事がわかり、遭難者を知らせる汽笛を鳴らしつつ、救助を求めるSOSを打電しました。

0:10
大雪丸
は航行不能の状態でしたが、木古内湾にたどり着き投錨する事ができました。車両甲板の車両を降ろしていたために、重心が低くなり安定度が増した事で、なんとか沈没を免れる事ができました。

また、エルネスト号を避けるために港外へ出た第十二青函丸も、錨を引きずりながら踟躊ちちゅうを続け、空船だったことが幸いし、かろうじて台風をやり過ごすことができました。

この頃から七重浜には大勢の人が打ち上げられ始め、海岸付近の民家に助けを求める人や、たまたま通りかかったトラックなどにより洞爺丸の沈没が明らかになり、少しずつ救助が始まりました。

この頃台風15号は、依然として中心気圧956mbを保持したまま石狩湾にありました。

被害をまとめると、青函連絡船は、洞爺丸、日高丸、十勝丸、北見丸、第十一青函丸 の5隻が沈没したのでした。

この後、次々と流れ着く遺体が処理しきれず、七重浜で荼毘に付しました。棺桶も数を揃える事ができず、国鉄函館工場で急遽棺桶を製造し対応しました。

洞爺丸台風がもたらしたもの

当時の観測体制では予測できなかった台風の動きが、大惨事をもたらしましたが、欠航の決定は慣習的に船長に委ねられており、欠航すると乗客や米軍の不満も大きいため、少々の悪天候では船を出すという不文律もありました。

それに加えて天気の読みに自信を持っていた近藤船長が、温暖低気圧による晴れ間を台風の眼と勘違いしてしまい、出航した事が大きな原因だと言われています。

この事件がきっかけで青函トンネルの開通の機運が高まり、青函トンネルが開通しました。それと入れ替わるように青函連絡船は80年の歴史に幕を下ろしたのでした。

おわり

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