見出し画像

白い地獄 その2

●前哨戦

5連隊では、事前に少人数で予行演習を行う事にしました。
予定の5日前の1月18日、予定ルートのほぼ中間地点である、屯営から9km付近の小峠という場所までを140名でソリ1台を曳いて往復するというものでした。

ここでいうソリは、底がツルツルの計量素材のものではありません、当時のソリは太い木材を組んで作られたもので、太い脚の滑走版が2本あるものです。
サンタさんがトナカイに曳かせているソリのゴツイやつです。
ここに荷物を満載して2人でロープを曳きます。それだけではフラフラしますし、下り坂では止める事ができないので、後ろでも2人がロープを曳きます。上り坂では応援の人員が後ろを押します。

この時のソリは荷物を積んだ状態で112kgありました。
先頭にカンジキを履いた20名の兵が立ち、雪を踏み固めながら進軍しました。
この日は好天に恵まれ、行軍は順調に進みましたが、登りに入ると途端にソリは進まなくなり、結局目的地である小峠まではたどり着けませんでした。
屯営から7km程度の田茂木野村(たもぎのむら)あたりで、こんな感じなら大丈夫だろうと判断して帰隊したのです。

画像1

また天候に恵まれた事から、寒さに襲われる事もなく、ソリ隊は上着を脱いでシャツだけになり、食事も問題無く取れました。

そもそも前の年、5連隊では別の部隊がソリを使った訓練を実施しており、
その時にも斜面を登る事ができなくなり、地元住民の助けを借りてなんとか実施できたという経緯がありました。
しかしそういった教訓は活かされる事はありませんでした。

●31連隊の陣容と計画

31連隊の雪中行軍隊指揮官は福島泰蔵大尉。通常の雪中行軍は中隊単位(200名程度)で行う事が多いのですが、今までの経験上、少数精鋭の方が良いという事で、36名の下士官(兵と将校の間の階級。軍曹や曹長などで、
会社でいうと主任とか班長とか小さいグループの監督職みたいなポジション)で、部隊を編成しました。
そしてそこに新聞記者が1名同行する事になり、総勢38名の部隊となりました。

11泊12日の行程で、少人数の31連隊は、荷物の携行が殆どできません。
12日分の食糧を持参する事などできません。また、雪に覆われた道なき道を迷わずに進むのは困難です。
そこで、予め宿泊予定の村に食糧や酒などの提供と案内人の提供をを命じておきました。
掘っ立て小屋のような家が数件あるだけの貧しい村しかありませんが、軍隊の命令に逆らう事はできません。各村は仕方なく命令に従います。

事前に綿密な調査を行い、隊員には凍傷を防ぐため足に唐辛子をまぶす指示を出したり、携行物の細かい指示を出したりと、しっかりした指示が出ていました。

●5連隊の陣容と計画

5連隊の指揮官は神成文吉大尉。こちらは中隊単位での編成としました。各中隊から選抜した200名と大隊長の山口少佐以下大隊本部10名も参加する事になり、総勢210名の部隊となりました。
これは例えて言うなら、1学年3クラスの学校で、各クラスから生徒を選抜して1クラス分の人数を集め、指揮を取る先生が1人、そこに学年主任の先生始め、その学年の先生が監督役として同行するようなイメージです。
予行演習では112kgのソリ1台でしたが、今回は80kgのソリを14台曳いていきます。
5連隊の兵の殆どは、岩手県と宮城県の出身者で占められており、雪には不慣れでした。
岩手や宮城は北国で、雪には慣れているのではと思う方もいるかもしれませんが、雪は降りますが少し積もる程度で、山間部を除けば、青森県のように屋根まで埋まるような豪雪地帯ではありません。また雪質も全然異なります。
ちなみに青森市は人口10万人以上の都市の中で、年間の平均積雪量がなんと世界一なのです。

5連隊はは食糧や露営の資材など、総重量1.2tもの物資を自分たちで持参します。
目的地の田代新湯については、殆どの参加者が行ったことも無く、どのような場所かも知りませんでした。
山中の温泉宿のようなイメージがありますが、実は湯守の一家族が掘っ立て小屋のようなところで越冬しているだけの温泉で、宿泊など到底適わない場所です。温泉も小さな湯船があるだけで、大勢で押しかけて入れるような代物ではありません。
しかし、兵の中には私物は手拭一本だけを持参し、一風呂浴びて酒を飲んで一泊して帰ってくると思っていた人もいたようです。

隊員に対しては詳細な説明が無く、懐炉を推奨する程度で、寒さに対する構えは個人に任されていました。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?