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奥羽越列藩同盟(4/5)

結成

時間を少し前に戻します。
4月17日に嘆願書が拒否されましたが、翌18日仙台藩の但木土佐ただきとさは薩長の横暴を非難し、「西軍とは名ばかりの偽官軍で、ただの反乱軍ではないか。とても天皇の意向を受けているとは思えない。こうなった以上は東方より勤王の旗を揚げ、薩長を追い払って真の王政復古を実現するつもりだ」と気炎を揚げました。
そして総督九条孝道に、世良修蔵の解任を迫りました。
そうした中で世良は暗殺され、奥羽諸藩は奥羽鎮撫総督府と交渉を進めることは出来なくなりました。

但木土佐

そこで5月3日に、仙台・米沢・盛岡・秋田・弘前・二本松・守山・新庄・八戸・棚倉・中村・三春・山形・磐城平いわきたいら・松前・福島・本荘・泉・亀田・湯長谷ゆながや下手渡しもてど・矢島・一ノ関・上山かみのやま・天童 の25藩が参加する 
奥羽列藩同盟が結ばれました。

奥羽越列藩同盟33藩

5月6日には越後諸藩、長岡・新発田・村上・村松・三根山みねやま・黒川の6藩が参加し、ここに会津・庄内を含めて合計33藩の同盟が成立しました。
(朝敵扱いをされた会津藩と庄内藩は、事前に「会庄同盟」を結成しています)

奥羽越列藩同盟旗

目的

冒頭にも書いたように、奥羽列藩同盟は薩長に対抗する旧幕藩体制の維持のための軍事同盟だと捉えられがちですが、そうではありません。
奥羽越列藩同盟の目的は
①列藩の合議で義兵を挙げ
②君側の奸を掃討し
③内乱を鎮める

です。

旧幕府や会津藩だけを助けようというものではありませんし、そのように宣言していました。

同盟は福島に事務局を置き、九条総督が同盟の統領に据えられました。
九条総督は奥羽鎮撫軍の総督ですが、勝手に担がれた形です。
同盟軍は早速白河城を落としました。計画ではここを拠点に薩長軍を防ぎ、関東諸藩や旧幕府軍と協力して江戸を包囲する予定でした。
さらには全国の諸藩に呼びかけて薩長を孤立させ、薩長側のイギリスを除いた、フランス・アメリカ・ロシア・プロシアなどに呼びかけて、開国、貿易を進める事になっていました。
早速新潟や横浜の外国勢力にも檄文が渡されましたが、5月1日には白河城が再び薩長軍の手に落ちました。

苦境

また4月27日には、松島湾から佐賀・小倉両藩の新政府軍600名が上陸しました。
これは庄内方面への援軍として到着したものですが、参謀の佐賀藩士前山清一郎は奥羽越列藩同盟の成立を知って驚きました。
このままでは自分達は飛んで火に入る夏の虫です。
そこで同盟軍に対して「事情は分かった、九条総督を連れて秋田にいる澤副総督のもとへ行き、即時停戦をする。そしてすぐに京へ向かい、太政官に停戦を申し入れる」と称し、5月18日に九条総督を伴って秋田へ向かいました。
秋田で副総督と合流した一行は、会津・庄内の討伐を宣言し、秋田藩を同盟から脱退させました。
同盟軍はまんまと騙されたのでした。

こうして鎮撫軍総督という大義名分を失った同盟は苦境に立たされました。
ここで担ぎ出されたのが、輪王寺宮公現法親王りんおうじのみやこうげんほっしんのうでした。

輪王寺宮

輪王寺りんおうじは上野の寛永寺のなかの塔頭たっちゅう(大寺院の敷地内にある小寺院や別坊)で、徳川家ゆかりの寺です。
ここに明治天皇の叔父にあたる22歳の公現法親王こうげんほっしんのうがおわしました。

輪王寺宮は上野で彰義隊が敗れた後、幕府軍艦に乗って茨城県へ向かい、6月2日に会津若松に入りました。
同盟はこの輪王寺宮を盟主に迎えたのです。

6月16日には会議を開き、居住を白石城とする事、会津にいる旧幕府老中板倉勝静いたくらかつきよ小笠原長行おがさわらながみちを参謀として招く事などを決めました。
輪王寺宮は米沢を経由して仙台入りし、仙岳院(仙台にある東照宮の塔頭)に滞在すると、奥羽越列藩同盟に対し、幼主である明治天皇を欺く薩賊の討伐を命じました。

7月13日に白石城入りした輪王寺宮は軍事総督と呼ばれることになりました。
翌日には城内に奥羽越公儀府が設けられました。これは同盟の軍事や政治を協議する、いわば政府のようなものでした。

その5へつづく

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