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白い地獄 その4

露営地

●2日目(1/24)

露営地を出発した部隊は、西側にある鳴沢渓谷に迷い込みます。昨日と同じように、急な崖を降りてしまったのです。
道を間違えた事に気づいた指揮官神成大尉は、露営地に引き返すコースを指示し、後方を歩いていました。
ところが、一旦は露営地へ向かって進みましたが、そのうち露営地を右に見るようにして部隊は進み、やがて川にぶつかり進路を左に取って、またもや鳴沢渓谷へ入り込んで行ったのです。
(地図で第一露営地を出てすぐに戻ろうとして、結局円を描いているあたりです)

これは、露営地に戻ろうとした時に、自分は田代新湯への道を知っていると言い出した下士官がおり、山口少佐が神成大尉に相談なく、それでは道案内せよと命じたためにこのようなルートを進むことになりました。
結局、下士官は道など知らず、山口少佐も寒さから逃れるため、一度帰営の命令を出したにも関わらず、田代新湯へ向かおうとしたのでした。
このように指揮系統は乱れていました。
恐らく寒さのあまり意識の混濁が始まっており、正常な判断ができなくなっていたものと思われます。

再び鳴沢渓谷に入り込んだ部隊は、そこから抜け出る為に急な崖を登りますが、睡眠も満足な食事も摂っていない兵たちの中には、登る事ができない者もいました。そしてここで最初の犠牲者が出ました。疲労凍死です。
ここで隊員の1/4程度が力尽き倒れました。

なんとか崖を登りましたが、既に時間は16時頃となっており、あたりは暗くなりつつありました。
寒さは一段と厳しさを増しており、推定で-20℃ぐらいであったと言われています。
猛烈な風がふいていたため、体感温度は-50℃近かったとも言われています。
将兵たちはこの崖の上り下りで体力を消耗してしまい、寒さから逃れるためにに、窪地で2日目の露営を行います。
結局14時間以上も猛吹雪の中をさまよい続け、直線距離でたった700mを進んだだけに終わりました。
もはや雪を掘る道具も体力も無く、吹きさらしの中、食料も無く立ったままでウトウトするのが精一杯でした。

身体をぶつけ合ったり、軍歌を歌うなどしましたが、将兵は次々と倒れここで一番多くの将兵が亡くなりました。
将校が集まり、前日暗い中を出発して道に迷った事を踏まえて、夜明けを待って出発する事にしました。

一方、青森市の5連隊では、この日予定の時刻になっても部隊が帰営しないため、怪我人でも出て遅れているのではないかと、応援隊を田茂木野村まで迎えに行かせました。
しかし夜中になっても雪中行軍隊は現れませんでした。

5連隊ルート

●3日目(1/25)
旭川で日本最低気温の記録が出たこの日、寒さの中我慢できなくなった兵たちが、このままでは皆死んでしまう、早く出発させてくれと言い始めます。
初めは夜明けまで待てと言っていた山口少佐ですが、兵たちの声に押されて
3時頃露営地を出発しました。

しかし、暗闇の中出発したため、部隊はまたもや方向を誤ります。
南方向にある八甲田山を登り始めたのです。しかしこれはすぐに間違いに気づき、回れ右をして、露営地へ戻る事になりました。
この時、映画で有名になったセリフを神成大尉が叫びます。
映画では「天は我々を見放したか!」と叫びますが、
実際は「我々に死ねというのが天の命令である。みんな露営地に戻って枕を並べて死のう」と言ったそうです。
これを聞いた兵たちは、何とかして帰営して家族に会うという気力だけでここまで来ていたのに、気力が途切れてしまい、バタバタと倒れるものが続出しました。

夜が明けると総勢60名程度にまで減っていました。150名は命を落としたか落伍して死を待っている状況でした。
一部の兵たちは背負っている背嚢(リュック)を燃やして暖を取りました。
この頃になるとすでに軍隊としての規律は無くなり、指揮命令系統も乱れ、
各自が勝手に行動するような状況になりました。

やがて第二露営地へたどり着きましたが、このあたりで山口少佐が人事不省となります。
午前7時頃、少し天候が回復しました。そこで帰路を見つける為十数名の斥候隊を出しました。
11時30分頃になり、帰路を発見したと斥候隊の一人が戻ってきました。
斥候隊は放棄されていたソリを発見したのです。
これを受けて部隊は出発しました。

この頃にはほとんどの将兵が幻覚を見、幻聴を聞き、垂れ流した糞尿でズボンも下着も凍り付き、手や足は凍傷に犯されていました。
また部隊はバラバラになっていたため、指揮官の神成大尉は行方不明、山口少佐は人事不省で、倉石大尉が指揮を執っていました。

やがて日が暮れてしまい、やむなく三回目の露営を行う事にしました。
またバラバラで進んでいたため、この日の露営は2つに分かれていました。
神成大尉を始めとする集団は、第二露営地で露営を行いました。
山口少佐や倉石大尉の集団は第三露営地で露営を行いました。

露営地


第二露営地からは直線で1.5kmしか離れていません。
ここでは死んだ兵の背嚢を燃やして暖を取りましたが、多くの死者が出ました。
朝まで生き残ったものは30名程度しかいませんでした。

この日の青森市は天候も回復しており、5連隊からは40名程度の部隊が屯営にほど近い幸畑村で、粥を焚いて雪中行軍隊の帰営を待っていました。
さらに先遣隊として田茂木野村にも一部を進出させ、日が暮れると篝火を焚いて待ちましたが、行軍隊は現れませんでした。
200名からの大部隊が遭難するわけも無く、もしかしたら田代新湯に一泊後、同じ道を引き返さずに三本木方面(現十和田市)へ抜けたのではないかという意見もあり、三本木警察署に電報で確認しますが、行軍隊が三本木に向かった様子は無く、ようやく救助隊を派遣する事にしました。

ルート

〇31連隊
31連隊は一名が凍傷にかかり、25日に三本木から最寄りの下田駅に向かわせ、汽車で帰隊させる事にしました。
翌26日は、田代新湯を目的地に出発する予定で、行程中一番長い距離を歩く予定でしたが、急遽途中の増沢村に宿泊する事としました。このことが5連隊との命運を分けます。

つづく

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