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日本と土耳古 その5(全5話)

こうして訳も分からないまま、在留邦人たちはトルコの救援機で無事イランを脱出する事ができました。
時間が経つにつれこのトルコがみせた善意は、どうやら100年近く前の出来事に原因があるのではないかと知られはじめます。

困っている人を助けるのは当たり前

当時救出に関わった人々の声です。

オザル首相「困っている人を助けるのは当たり前の事」

救援機の機長アリ・アズデミル「非常に危険な任務だったので家族には内緒でフライトした。自分たちは当たり前の事をしただけ。もし日本人がまた困るような事があったら、自分はまた飛ぶだろう」

駐日トルコ大使「エルトゥールル号以来の関係が日本とトルコの間にはあります」

救援機のCA「昔、日本人はエルトゥールル号が遭難した時に命懸けで助けてくれました。だからその日本人を助ける仕事に携われるのは、自分にとって幸せでした」

トルコでは小学校の教科書に、エルトゥールル号の話が載っているそうです。

こうして100年前の、和歌山の小さな村の人々を中心に行った人助けが、巡り巡って大勢の日本人を救う事になりました。

続く友情

それだけではなく、2011年の東日本大震災では、各国からの救助隊の中では最長となる20日間に渡って、捜索や救助にあたってくれました。20か国以上の国々が救助隊を派遣してくれましたが、福島第一原発の事故を受け、各国とも救助隊の引き上げを行う中、トルコは残って活動を続けてくれたのでした。

トルコチーム

また、同じ年の10月にはトルコで大地震がありましたが、日本の救助チームがトルコ入りをし、救助活動にあたりました。

このような災害時の救援だけではなく、ボスポラス海峡に橋を架ける際には、政府開発援助として石川島播磨重工や三菱重工が現地企業とのJVで開通させていますし、ボスポラス海峡にトンネルを掘り、大陸を地続きにするという事業については、日本の大林組が現地企業とJVを組み、最も困難な海流の早い海峡部分にコンクリート製の函を沈める工法を成功させ、トルコ150年の夢とまで言われた難事業を成し遂げました。

また、トルコのイズミット湾にあるオスマン・ガーズィー橋は、国際入札を経て日本のIHIインフラシステムが受注し、世界第四位の長さとなる吊り橋を完成させています。

一昨年(2020年)の秋、イスタンブール市内にある通りが「津村諭吉通り」と改名されました。

これは日本がシベリア出兵でバイカル湖付近まで進出した際に、捕虜収容所にいたトルコ兵やその家族1030名余り(女性19名、子供17名を含む)を収容し、1921年に平明丸という徴用船でウラジオストックからイスタンブールまで運んだ事に端を発しています。

当時トルコと戦争状態にあったギリシャは、エーゲ海の沖で平明丸を拿捕しトルコ兵の引き渡しを求めました。

しかし船長の津村中佐はこれを断固拒否します。

津村諭吉中佐

津村中佐以下日本の乗組員とトルコ兵は、船内に立て籠り7か月にわたりギリシャ軍に抵抗し続けました。

やがてイタリアの仲介により、イタリア領アシナラ島でイタリア側にトルコ兵を引き渡し、トルコ兵が祖国に帰りついたのは、ウラジオストックを出航して実に1年4か月後の事でした。

このことを忘れずにいたトルコの人たちの想いで、津村諭吉通りが誕生したのです。

こうして日本とトルコは今でも固い絆で結ばれているのです。

おわり


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