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白い地獄 その6

●6日目(1/28)
5連隊遭難の報告を受けた連隊長の津川中佐は、各方面へ報告するとともに、他に生存者は無く遺体捜索を実施する事になると考え、二次遭難が起こらないよう、田茂木野村に前線基地を設け、そこから600m~1,000mごとに連絡所を設置する事を命じます。
そのため、この設営作業に28日と29日をあててしまい、遭難者のもとへ捜索隊が向かう事はありませんでした。

この日山口少佐たちの集団とその近くには数十名の将兵がいました。
かれらの一部は低体温症による意識の混濁により、目の前の川を下れば青森市に着くと飛び込んだり、事実上の指揮官となっていた倉石大尉が、川を下って連隊本部に報告せよと部下に命じ、部下が川に入るなどして、生存者は減って行きました。

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また、川沿いを下れば連隊に戻れると、比較的元気であった伊藤中尉は滝の横を苦労して降りましたが、そこから先は切り立った崖に挟まれた中を川が流れており、進むことも戻る事もできなくなりました。
この時18名の兵が同行しており、動けるものはそこで川の水を飲んだり、動けない者に水を飲ませたりし、死を待つばかりとなりました。


〇31連隊
案内人から小屋の話を聞いた福島大尉は案内を命じ、31連隊は小屋へ向かいました。
辺りはまだ真っ暗でしたが、5時頃一行は小屋にたどり着きました。
小屋は小さいので交代で中に入り、火にあたる事で31連隊の将兵は遭難寸前の状況から脱する事ができました。
案内人が小屋を見つけなければ、31連隊も恐らく5連隊と同じ運命にあったと思われます。

そこで朝食を摂り、7時頃田茂木野に向けて出発しました。
案内人たちは、日帰りで田代新湯までという約束でしたが、福島大尉は案内人たちにこう告げます。
「ここから戻るのは大変だ。この先の地形を考えると、このまま我々と青森市まで行き、青森から汽車で戻る方が楽ではないか」
これを聞いた案内人たちは、自分たちの事を気遣ってくれていると喜び、同行に応じます。
実は福島大尉は、田茂木野に向かう道に不安があり、案内人を帰したくなかっただけなのです。

素朴な案内人たちは、深い積雪の中あえぎながら部隊の先頭に立ち、泳ぐようにしてラッセルをしていきました。
31連隊は案内人たちがつけた道跡を進んで行きました。
やがて5連隊がはまり込んだ鳴沢渓谷に近づいたころ、雪の中に小銃を発見します。
これを案内人に担がせて進み、夕方頃に更に小銃を発見し、これも案内人に担がせて馬立場に達しました。

この頃案内人たちは疲労の為に意識朦朧となり、ふらふらと先導していましたが、雪の中に凍死体を発見します
福島大尉は後難を恐れ手を触れないよう命じ、先に進みますが更に凍死体を発見します。
これも放置して進軍を続け、日もすっかり暮れた18時頃、前日に後藤伍長が救助されたあたりに達しました。
この辺りまでくると天候も回復し、眼下に青森の街の灯りが見えるようになりました。

ここで福島大尉は案内人たちにお金を渡し「お前たちはここから好きにしろ。この二日間に見たことは絶対口外してはいけない。もし人に話したら、一生牢獄から出られなくなる」と脅し、案内人たちを置き去りにして出発したのです。
この後、案内人たちは命からがら田茂木野村にたどり着きましたが、小さな村は捜索隊でごった返しており、泊まらせてくれよう頼みますが断られ、必死で頼み込んで土間に寝かせてもらいました。

案内人たちは翌日青森市から鉄道で最寄り駅まで行き、そこから彼らの村まで30kmあまりを歩いて、帰宅することができました。
皆凍傷に侵されており、治療も受けられずほとんどの者に障害が残りましたが、軍隊が恐ろしく、福島大尉の言った誰にも口外するなという言いつけを守りました。
彼らが重い口を開いたのは、実に28年も経ってからでした。

●7日目(1/29)
〇31連隊
午前2時過ぎ、31連隊が田茂木野村に到着しました。
昨日からの強行軍で、隊員たちは幻覚を見たり、眠りながら歩き倒れるものが続出していました。
恐らく案内人がいなければ、5連隊と同じ運命をたどっていました。
隊員たちは村の家々に分散して休憩をとり、4時過ぎに出発して青森市内の旅館に泊まりました。

●8日目(1/30)
捜索隊は賽の河原と呼ばれる一帯で36名の遺体を発見しました。
この場所は、第三露営地を出た山口少佐たちが向かった、川に行き当たるあたりです。
山口少佐たちはここから川沿いに川下へ進んだ方へ向かっています。

〇31連隊
予定では、ここから更に街道沿いの山々を抜けて帰営する予定でしたが、
師団長から直々に諭され、急遽街道(現国道7号線)を歩いて帰営することとし、この日は途中の浪岡村で一泊しました。

最終回へつづく

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