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白い地獄 その1

20世紀になって間もない1902年(明治35年)1月25日、日本で未だに破られていない記録が生まれました。
北海道の旭川で-41℃という最低気温が記録されたのです。
この時旭川ではお酒も凍ったため、凍った酒を割って個体のまま販売したそうです。

猛烈な寒波に襲われていた日、350km離れた青森県八甲田山麓では、吹雪の中大勢の将兵が遭難し、最終的に199人が亡くなるという大惨事が発生しました。
小説や映画になった有名な話ですが、そのあらましを書いてみたいと思います。

時は日露戦争前夜、もしロシアと戦争になった場合、有力な極東艦隊を保有するロシアは、日本沿岸各地を砲撃する事が想定されていました。
また津軽海峡を封鎖し、本州と北海道を分断して物資や兵員の輸送を途絶させて、北海道へ上陸する事も想定されました。

そういう状況の中で、もしロシア極東艦隊が陸奥湾(青森湾)に侵入してきた場合、主要街道と鉄道が海沿いにしか無いため、青森と八戸間の輸送ができなくなる事が考えられました。

陸奥湾

軍隊というところは、戦闘の訓練ばかりしている様に見えますが、平時は様々な研究課題を掲げて、それを目標にした訓練も実施していました。
弘前市に拠点を置く第8師団は雪国にあるだけあって、雪中行軍に力を入れていました。
そして各連隊に研究課題を与えて訓練をしていたのです。
連隊では、さらに部隊ごとに細かいテーマを決めて、調査訓練を実施します。

そういう事情から、青森市に駐屯する歩兵第5連隊は、「冬期における物資輸送」を研究課題とし、青森市から八甲田山麓にある「田代新湯」温泉への往復行軍を計画しました。

一方同じ青森県の弘前市には、兄弟連隊の歩兵第31連隊がありました。
同じ第8師団の配下で、31連隊は5連隊より20年ほど遅く創設されました。
そのような背景があり、31連隊は5連隊に追い付け追い越せ、5連隊は31連隊に負けるな、とお互いに良きライバルとして切磋琢磨していたのです。

31連隊は研究課題に「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」を掲げ、三年計画で調査を行っていました。
31連隊は福島大尉を指揮官に、初年度は雪中露営を行い、2年目は津軽富士と呼ばれる岩木山の雪中登山を行い、登頂は叶わなかったものの、1日で雪中の44kmを踏破しました。
3年目は集大成として、十和田湖を回って冬の八甲田山系を踏破し、青森市へ抜けて弘前市に戻るという、計画を立てていました。

こうして期せずして、5連隊は1月23日から24日までの1泊2日、31連隊は1月20日から2月1日までの11泊12日というスケジュールで、雪中行軍を実施する事になったのです。

●行軍予定ルート
赤が31連隊、黒が5連隊のルート。

ルート

つづく

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