見出し画像

命と引き換えに領民を救った殿様

秀吉、家康クラスともなれば、ある程度好き勝手な事をやっていても家臣団がうまい事やってくれますが、地方の大名や領主はそうもいきません。もちろん領民が領主に表立って逆らうなんて事は一揆以外にはないのですが、頼りにならない領主や、領民の事を考えずに好き勝手やっている領主はそっぽを向かれます。

戦の時に領民が駆り出されますが、その時に「このお殿様の為なら」と思って戦うのと「この殿さまの為に命なんかかけられるか」と思って戦うのでは戦の結果も当然違ってきます。

そんなわけで地方大名は治水や新田開発など、領民ファーストでまつりごとを行わないといけないのです。
防衛省と国土交通省と農林水産省と財務省を一手に引き受けているようなものです。

さてさて、伊達政宗の七男に長松丸という子がいました。長じて宗高と名乗ります。

慶長12年といいますから西暦では1607年に生まれました。慶長というのは災害の多い時期で、この4年後に慶長三陸地震と呼ばれる地震が発生し、その後に発生した大きな津波により、仙台藩も甚大な被害を受けました。   東日本大震災と似たような災害だったと思われます。

1613年、慶長三陸地震から2年後、長松丸は6歳になっていました。 
その頃伊達領内の柴田郡を治めていた伊達氏の庶流田手宗実たでむねざねのもとへ養子に入ります。

田手氏は小泉氏と改姓させられましたが、所領は安堵され後に宗実の実子高実に引き継がれました。
田手家を継いだ長松丸は、柴田刈田両郡併せて3万石を拝領しました。

1619年、12歳の長松丸は元服し、右衛門宗高と名乗ります。
それから4年後の1623年4月、蔵王山の刈田岳が噴火しました。

刈田岳山頂から望む御釜

大地震の後は噴火が起こる事が多いのです。
領内の田畑にも火山灰や火山弾が降り注ぎ、農作物は甚大な被害を受けました。

年も代わろうかという頃になっても火山活動は止まず、それどころか山鳴りがするようになりました。
年が明けても一向に収まる気配もありません。

領民たちは恐れおののいています。

この頃、政宗の側には明からやってきた王翼という人がいました。もとは明国の将軍だった人で、易や祈祷などにも長けていました。

政宗は王翼に、刈田岳を鎮めるための祈祷を命じます。そして自分の名代として刈田岳の地元を治める宗高を指名しました。

宗高と王翼は噴煙の上がる刈田岳を登り「自分の生命はなくとも噴火がおさまり、人々の危難を救い給え」と祈りを捧げ、王翼が祈祷を行いました。

この祈祷が通じたのか、程なくして火山活動は収まりました。

その2年後の1626年、将軍家光の命で政宗が上洛する事となり、そのお供として兄忠宗と京へ向かいました。
ところが京に滞在中の8月、疱瘡(天然痘)に罹ってしまいます。治療の甲斐なく7日後に死去しました。享年20という若さでした。

若くして亡くなったために、治世の詳しい資料などは残っていませんが、10名の家臣が殉死したことからも、暗愚な領主では無かったと思われます。後に、京から戻ったら、家臣の娘と結婚させるという政宗からの手紙が見つかっています。

やがて領民は「殿様はご自分の命と引き換えに山を鎮められたのだ」と信じるようになり、長くその徳を称え、慕われることとなったのでした。

刈田岳山頂には大正時代に建立された「伊達宗高公顕揚碑」と昭和に建立された「伊達宗高公命願碑」があり、今も刈田岳を見守っています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?