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甘粕事件 その4

裁判は、この事件が軍の指示で行われたものか、甘粕達個人の判断だったのかに焦点が絞られました。鴨志田への審問が続きます。

-司令官の命令だとは言われなかったか

鴨志田「上官の命令だから、お前たちに責任は負わせないと言われた」

-上官とは誰の事か

鴨志田「甘粕大尉だと思った」

-それより上からの命令と聞いたことは無いか

鴨志田「命令とは聞かなかったが、大尉と森が上官の命令だから失敗するなと話し合っていたのを聞いた」

非常に重要な事なので裁判官は甘粕と森に問いただしますが、彼らは上層部からの指示である事を強く否定しました。

続いて本多の審問に入りました。

-子供を殺す時に手伝えと命令されたか

本多「はい」

-承知したのか

本多「はい」

-鴨志田はどのように首を絞めたか

本多「手で首を絞めた。殺すのを見た時、ぼーっとしてしまった」

-殺すのを知っていたのになぜぼーっとした

本多「殺すとは、はっきり知らなかった。自分は何もしていない」

-手を押さえていたというではないか

本多「押さえていない。触ったらすでに冷たくなっていた」

-(鴨志田に対して)本多は何もしていないというが

鴨志田「自分が首を絞めた時、本多が手を持つことになっていた」

-間違いないか

鴨志田「はい。自分が首を押さえていいか聞き、本多が良いというまで待っていた」

-本多、手伝ってはいないのか

本多「はい」

-ならばお前は関係無いではないか、なぜ自首した

本多「自首をすすめられたので、従っただけだ」

-お前は甘粕か森から上官の命令だと聞いたことは無いか

本多「森から聞いた」

-他には何か言ったか

本多「森から、これは司令官からの命令で行った事だから、絶対に口外するなと言われた」

なんと憲兵司令官の命令だと証言したのです。

-(森に対して)司令官の命令だと言ったのか

森「言っていない」

この件については極めて重大な事なので、憲兵隊司令官(この時は責任を取って辞任していました)小泉少将の尋問を行いましたが、着任したばかりで社会主義者についても知識が無く、甘粕に大杉の殺害を命じた事も無ければ大杉達を憲兵隊に連れて来たことも知らず、9月18日になって、東京憲兵隊長小山大佐の報告で初めて知ったと証言しました。

小山大佐を証人として出廷させましたが、震災後に社会主義者を取り締まる必要があると感じたので、注意するようには伝えたが、殺害については全く知らなかったと証言しました。

こうして、憲兵司令部の命令では無い事が明白になりました。
(敢えてこれ以上追求しなかったという説もあります)
また裁判の中で甘粕は、動機は個人的なものだけではなく、淀橋署でも「大杉をやってしまえ」という声があったが、警察で殺害するわけにはいかないから憲兵隊でやってはもらえないかと相談されたと証言しましたが、これは淀橋署員が否定したので、甘粕の嘘という事でそれ以上追求されませんでした。

実は、森は司令部付きの兵士で甘粕の直属の部下ではありませんでした。もし森に命令するのであれば、甘粕から司令部へ具申し司令部から森に命令が下るのが普通です。
そのため誰しもが、司令部が関与しているのではないかという疑念を抱いていました。

なお、当時の死体検案書が1970年代に発見され、それによると大杉と野枝の遺体には、生前受けた激しい暴行の跡があり、胸部完全骨折と記録されています。
それが致命傷ではありませんが、死を早める要因の一つになったと考えられます。
二人は激しい暴行の末に絞殺されたわけですが、裁判ではそこまで追及はされませんでした。

審理の中で、大杉達は3名は全て裸にされて菰に包まれ、縄で縛ったうえで敷地内の古井戸へ投げ捨てられたことが明らかになりました。その上に、がれきや馬糞を投げ入れ、翌朝には人夫に命じて土をかぶせて埋めてしまいました。

しかし、その後事件が発覚し、9月18日に掘り起こされました。
ではなぜ事件は発覚したのでしょうか。

大杉栄を監視していたのは憲兵隊だけではありませんでした。警視庁も大杉を監視していたのでした。警視庁は大杉が憲兵隊に連行されたまま消息を絶ってしまった事を怪しんで内務省に報告し、内務大臣から陸軍大臣のルートで事件の内容を知りました。

警視庁では陸軍からの指示もあり、大杉殺害事件については秘匿に努めましたが、新聞記者に知られてしまい、9月20日には号外の印刷まで行われました。
これを察知した警視庁は号外の差し押さえを行い、陸軍に報告しました。

また橘宗一はアメリカ国籍を持っていたため、家族は宗一が行方不明になった際に、警察よりも先に、アメリカ大使館に訴え出ていたのです。
そのためアメリカ大使館は、日本政府に事態の解明、自国民の保護を強く求めました。

陸軍はこれ以上秘匿は難しいと判断し、幹部の更迭を行い、甘粕大尉と部下たちを軍法会議にかける事にしたのです。
その上で国民の反応を恐れて、この件については報道しないよう報道機関に圧力をかけましたが、大杉栄が殺されたという噂が広く流れたため、9月24日に甘粕が大杉ほか2名を殺害した疑いで、軍法会議に公訴した事と、それは大震災の混乱に乗じて社会主義者が良からぬ事を企むのではないかと憂いるあまり、国家に害を成す前に排除しようとしたからだという事を発表しました。

それと同時に新聞社に対して、これ以外の記事を発表する事を禁じました。こうして事件は公になったのでした。

最終回へつづく

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