見出し画像

日本と土耳古 その3(全5話)

イラン・イラク戦争

1985年(昭和60年)3月17日20時、イラン国営放送から衝撃のニュースが流れました。

隣国イラクのサダム・フセインが「首都テヘランを含むイラン上空を飛ぶ全ての国の航空機は3月19日20時以降、無差別に撃墜する」と宣言したのです。

突然の宣言でしたが、リミットはわずか48時間しかありませんでした。

この当時の世界情勢を少し振り返ってみましょう。

アメリカではレーガン大統領が二選を果たし、ソ連ではゴルバチョフが書記長に就任しました。1980年から始まったイラン・イラク戦争は激化の一途をたどり、3月に入ってからはお互いの都市を空爆していました。

そこでこの宣言に繋がったのです。

イランには日本人を含め大勢の外国人が駐在していましたが、この放送を聞いて一斉に国外に脱出し始めました。

見捨てられた日本人

航空券を手に入れようと人々は航空会社の窓口に殺到しましたが、緊急事態なのでどの国も自国民優先で、他国の人にはチケットを販売しませんでした。

この時、日本はイランに飛行機を乗り入れていなかったため、在留邦人はチケットを買う事ができず、脱出の術がありませんでした。在留邦人の依頼をうけた大使館は外務省へ連絡を取り、飛行機の手配を依頼します。

外務省は日本航空へ依頼をしましたが、パイロットたちは拒否しました。

もし行けというなら、イラン・イラク両国から日航機だけは攻撃しない約束を取り付けろというのです。

戦争をしている国にそのような話が通じるわけがありません。

当時の日本は第二次中曽根内閣で、自衛隊機で救出しようと検討しますが、法整備がされておらず、自衛隊機を海外へ派遣することができませんでした。

他国に飛行機の手配を打診しますが、どの国も自国民を救出するのに手一杯で首を縦に振ってくれる国はありませんでした。
あまりにも時間が無さ過ぎたのです。
出国を希望する日本人は幼児を含めた250名余りにものぼりました。

翌18日、駐イラン大使館の野村大使は、家族ぐるみで付き合いのあったトルコ大使館に行き、事情を説明し飛行機の手配を頼んでみました。

イランにいるトルコ人は600名を超えており、トルコ航空のDC10型機は定員250名なので、3便にわけてようやく自国民を乗せられるような状況でした。

トルコの大使は本国に電報を打つと言ってはくれましたが、飛行機の手配が難しい事は明らかでした。

残された時間は36時間しかありませんでした。

同じころ、伊藤忠商事のイスタンブール事務所長の森永氏のもとへ、東京本社から依頼がありました。在留邦人救出のために、トルコに救援機の依頼を打診してくれというものでした。危険だからと自国では飛行機を出さないくせに、トルコにトルコ人の救出を差し置いて日本人を救出してくれと頼むのは、あまりにも虫のいい話です。

森永氏は恐縮しながらも、旧知の中であるオザル首相の元へ行き、助けて欲しいと伝えました。

オザル首相

オザル首相は一言「わかった心配するな。後で連絡する」とだけ言いました。

その4へつづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?