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甘粕事件 その5(最終回)

裁判で大杉殺害の状況が明らかにされ、事件は公になりました。最後に大杉栄と伊藤野枝の人となりと、甘粕の晩年を記したいと思います。

ここで少し大杉と野枝について、どのような人物だったか見てみましょう。

大杉は、14歳で陸軍幼年学校に入学し、学科ではトップの成績を治めますが、素行は最下位の成績で、同級生との喧嘩で刺されたり、下級生に同性愛の行為をするなどの問題行動があり、二年で退学になっています。

その後徐々に社会主義に感化されていき、度重なる逮捕を経てアナーキズムへ傾倒していきます。

大杉は自由恋愛論者を標榜していました。

電車賃値上げ反対運動に参加して監獄に収容され、保釈後に社会主義者の堺利彦の家に転がり込みました。
大杉には既に同棲していた未亡人がいましたが、堺の家に同居していた堺の亡妻の妹である堀保子に対し、自分の服に火をつけて自殺をすると脅して、強引に結婚しました。

しかし入籍はせずに、しばらくは保子の収入で暮らしていましたが、ジャーナリストで婦人運動家の神近市子と愛人関係になり、さらには夫のいる野枝と今でいうW不倫の関係になりました。

大杉と野枝が神奈川県の日蔭茶屋という旅館にいた時に、嫉妬した神近市子が乱入し大杉の首を刺して重傷を負わせるという事件を起こし、世間では日蔭茶屋事件と呼んで大杉と野枝の名前は知れ渡りました。

また、大杉の発行している雑誌が発禁処分を受けた際に、政府が発禁にしたから生活が困窮したとして当時の内務大臣、後藤新平のもとへ赴き直談判して資金を援助してもらうなど、金は人からもらうものという考えで行動していました。

大杉は、生計を一にすることなく、それぞれが自活したうえで自由な恋愛をする事を公言しており、いわば大杉にとって都合のいい多夫多妻制を実践していました。

一方の伊藤野枝ですが、翻訳家で思想家の辻潤と結婚します。

平塚らいてうが編集長を務めていた雑誌「青鞜(せいとう)」を、らいてうから奪い取り編集長となりますが、大杉と不倫関係になり、放棄して休刊させてしまいました。

日蔭茶屋事件により、その乱れた男関係が知れ渡り、仲間の活動家からも批判されます。周囲からは淫乱女、悪魔などと呼ばれたため、自分の長女に魔子と名前をつけました。

大杉が拘留された時には、やはり内務大臣の後藤新平に
「逮捕の理由は何だとか何故大杉ばかりを逮捕するなどと恨みつらみを書き連ね、さらには裁判で暴れてやるので覚悟しておけ、というより今から逮捕の理由を聞きにお前の家に行くから覚悟しておけ」
というような4mにも及ぶ巻紙の手紙を送り付けています。

結婚制度を否定し、不倫を堂々と行い、中絶賛成などを題材とした評論を発表しました。

当時としてはあまりにも過激で、性に対しても奔放な生き方を実践していました、それ故に仲間からも孤立していきました。

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それでは、この裁判の結果はどうなったのか見てみましょう。

現代の我々がこの事件について抱く感情は、甘粕許すまじというものでしょうが、当時は甘粕を支持する声も多くありました。
それほどまでに、社会主義者は忌み嫌われていました。
四谷区民5万人の減刑嘆願書が提出されたことからも、その一端がうかがわれます。

11月24日の論告求刑では、たとえ社会主義者であっても殺害は許されないが、甘粕大尉の私利私欲を離れた美しい精神は、量刑上大いに考慮されるものであると検察官は言いました。

そして次の求刑を行いました。

懲役15年 甘粕正彦
懲役5年 森慶次郎
懲役2年 鴨志田安五郎
懲役2年 本多重雄
懲役1年6か月 平井利一

これに対し、12月8日判決が下されました。

懲役10年 甘粕正彦
懲役3年 森慶次郎
無罪 鴨志田安五郎
無罪 本多重雄
無罪 平井利一

この後甘粕は服役しますが、3年で仮釈放され、フランス留学の後、満州に渡りました。そこで満鉄の調査機関に所属し、謀略工作などを行います。
爆破工作や幽閉されていた溥儀(のちの満州国皇帝)の逃亡を手伝うなどして、満州国設立に尽力し、満州国の警察庁長官や満州国協和会の要職を務め、満州国代表団副代表としてムッソリーニと会談するなどしました。

昭和14年には岸信介の助けもあり満州映画協会の理事長を務めます。

そして終戦後の8月20日、青酸カリで服毒自殺をしました。享年54歳。
その葬儀には日本人、中国人合わせて3,000人余りが参列し、葬列は1kmを超えたそうです。

この記事では、大杉殺害事件を中心に書いたため、極悪非道な印象が強いかもしれませんが、甘粕は権力を笠に着る人間が大嫌いで、あからさまに刃向かいますが、部下や立場の弱いものには優しく、面倒見が良い人だったそうです。

彼を慕う著名人は多く、生まれた時代が異なっていれば、違った評価をされた人ではないかと思います。

「大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん」彼の残した辞世の句で終わりにしたいと思います。

おしまい


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