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お寺を建てるには

僕の記事はお出かけや歴史に関するものが多いのですが、毎回記事を書きながら疑問に思っている事があります。
それは、寺は一体誰がいつどうやって建てたのかという事です。

例えば先日書いた記事で、中尊寺や毛越寺は慈覚大師円仁じかくたいしえんにん」が建てたと書きましたが、これの何が疑問なのか1つずつ挙げてみます。

1.誰の指示で建てたのか

円仁は延暦寺で最澄に師事していました。
会社でいうなら株式会社延暦寺の幹部社員です。
会社の方針が「今期は東国に10社の寺を建てるぞ」と決まって、お坊さんが各地に飛んで建てたものなのか、国家的プロジェクトとして、朝廷の命令で建てたものなのか、はたまた株式会社延暦寺から独立して、円仁株式会社を立ち上げてから建てたのか。

調べてみると円仁は864年に70歳で亡くなっていますが、854年61歳の時に延暦寺の第三代座主になっています。
こうしてみると、独立起業したわけではなく、最後まで株式会社延暦寺に所属していたようです。

ウィキペディアによると、山寺として有名な立石寺りっしゃくじは清和天皇の勅命で円仁が開山したとあります。
また瑞巌寺の前身である延福寺は淳和じゅんな天皇の勅願寺として開山したとあります。

そうなると全てがそうでは無いでしょうが、国家的プロジェクトで建てたお寺もあったという事がわかります。

2.誰に断って建てたのか

では天皇の依頼でお寺を建てたとしましょう。
お坊さんたちは山野を歩き回ってお寺を建てるにふさわしい場所を探すわけです。
そしてここはお寺を建てるにふさわしい場所だ!というところが見つかったとしましょう。

そこの土地の所有者は誰でしょうか?
時代にもよるのでしょうが、国有地なのかそのあたりを収めている豪族のものなのか。

もし国有地(朝廷の所有地)ならことは簡単ですが、個人の所有地だった場合はどうするのでしょうか。
円仁「今回かしこきあたりからお寺を建てろと言われましてね、是非ここの土地に寺を建てる許可を頂きたいんですよ。なんなら天皇直筆の書面を見せましょうか」
とゴリ押しをするのでしょうか。

それともお寺建立プロジェクトチームがこの辺りを廻っていると聞いた豪族が誘致するのでしょうか。
豪族「見ての通りこのあたりには何もありません。是非お寺を建てて頂いて、人が集まるようにしたいのです。何卒よろしくお願いいたします」
円仁「うむ、あちこちから建ててくれと陳情がきておりましてな。魚心あればなんとやらで、ふぉふぉふぉ」
こんなやりとりがあったのでしょうか。

3.費用は誰が出すの

お寺を建てるとなると費用は相当なものになります。土地の造成から始めないといけません。
朝廷の指示なので国が全額負担するのでしょうか。それとも指示はするけど金は出さないのでしょうか。
後者であれば勅命を受けた延暦寺が負担しないといけないのでしょうか。
徳川幕府は各地の有力大名に大規模な土木工事を命じて、その財力を削りました。同様に朝廷もただ命ずるだけだったのでしょうか。
はたまたその土地の所有者に負担させたのでしょうか。
円仁「というわけであそこに寺を建てようと思うのですが、諸物価高騰のおり、パチパチパチ、しめてこれぐらいの額でいかがでしょうかな」
この場合土地の所有者は困った事でしょう。

4.誰が工事したの

お金の出どころも誰の土地なのかもわかりませんが、お寺を建てる事が決まりました。
その場合、都からこんなに離れた田舎に大きなお寺を建てられる大工がいたのでしょうか。作業員も大量に必要です。
都から工事部隊も引き連れてやってきたのでしょうか。

5.最初から立派な寺だったのか

都から大人数でぞろぞろやってきて、山野を巡るとは考えにくいところがあります。経費も馬鹿になりません。
そうなると少人数でお寺を建てる場所を探していたと思われますが、ひょっとしたら最初は今に残るような大きな本堂などは建てなかったのではないでしょうか。

例えば最初は円仁自ら木材を集めて、掘っ立て小屋の様な仮堂を建てて、後に本格的なものを建てたのかもしれません。

それともいい土地が見つかったら、そこに工事看板のように「〇〇寺建設予定地 延暦寺」みたいなものを立てていったん都に戻ったりしたのかもしれません。

そして各地からお坊さんが戻って来るのをまって会議が開かれるわけです。
座主「では次は円仁部長」
円仁「はい、私は奥州は平泉というところでいい場所を見つけて、土地の所有者とも仮契約を結んできました」
座主「で業者はどうすんだ」
円仁「なにせ田舎なのでロクな大工もいませんし、ここは金剛組さんで行こうかと思います」
座主「最近は寺の建設ラッシュで金剛組さんも埋まってるから、早めに声掛けとけよ」
なんてことが行われていたのではないでしょうか。

こんな風に、いつ誰がどうやって建てたのかがよく分からないので、記事を書いていてもモヤモヤが残るし、はっきりとした事が書けずにいます。

そもそも円仁が建てたと言われていても、実際は違う事が多いようです。
円仁の名を借りて箔をつけたかったのでしょう。
立石寺は860年に円仁が開山したと言われていますが、亡くなる4年前で天台座主だった円仁が当地を訪れるとは考えにくいのです。

何を調べればこの謎が解けるのか、今後も悶々としながら神社仏閣の記事を書く事でしょう。

おしまい



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