コスパ至上主義の本音とは?

最近電車の中で本を読む人が、一時より増えたと思う。それに伴ってか図書館の本を読んでる人も良く見掛ける。

そして何故だか、人混みの車内でハードカバーの本を堂々と読んでいる人の本は、図書館の本であることも多い。んーなんか理由がありそうだ。

コスパと言う言葉は使い易い。平たく言うと安いに近い言葉だけど「えー安いね!」というより「えーコスパ良いね!」の方がなんだかスマートだ。本来、コストパフォーマンスが良いっていうのは、費用対効果が良いと言う意味だ。掛けた費用を考えるとお得ということだ。

しかし、コスパには暗に含まれる意味があるように見えてしまう。「自分は情報力が高い」という自己アピールだ。「通常1000円掛かるソレは、僕の情報収集により500円出せば同等のものが手に入る。500円で済むものを1000円払うなんてバカのやることだ!」コスパを語る人から駄々漏れる本音だと思う。図書館の本もそういうアピールなのかも知れない。俺はタダで本を読んでるぜ~スゴイだろ!ってね。え、ITO性格悪い?はい、あってます。

コスパ至上主義の人の話を聞いて思うのは、趣味趣向の概念の薄さだ。絶対的な価値観がお金にあるから趣味的な発想よりも、効果効率を重んじているから…と普通は考えるが、コスパ主義の人の思考順序は逆な気がしてならない。つまり、趣味趣向という発想でモノが選べないから、効率重視になってしまっているのではないか。

趣味とか趣向と言うのは、その人の美意識やセンスに由来する。これが綺麗だとか、気持ちが良いとか、好きだという自己表現することに躊躇がないのは、趣味趣向の軸が、その人の中にあるからだ。選ぶという行為で自分が表現されても困らない。

しかし、趣味とか趣向がない人は、選ぶという行為、選択眼に自信が持てない。「えーそういうのが好きなの??」と言われたら困る。しかし、費用対効果という物差しがあれば、安心して言い訳が言える。「違うよ、趣味ではなくコストパフォーマンスが良いからこれを選んだのさ」と。

そもそも、コストを基準にしたとて、金銭感覚は人それぞれ。何を安いと思うかに絶対基準がない。叶姉妹のコスパと阿佐ヶ谷姉妹のコスパには差があるのだ。コスパは何かと何かを比べて論じる事になるが「何か」の選択に基準がない。しかし比較はしているから納得感は出てくる。この納得感はコスパという表現の良いところだ。

ITOが思うコスパ主義の本音には「情報収集を元に比較で選択の根拠を述べると納得感が出るから、センスに自信がなくてもイケてる選択をしているように見せれるぞ!」というさもしさからの逃避が含まれる(気がする)。

正直、値段を鑑みる選択はITOも良くやっている。でも、そればっかりだと、なんか寂しく思うのだ。欲求としては、自分の趣味趣向で欲しいものを選びたいのだよ。今、2500円程掛けて手にしたゲーセンのフィギア「すーぱーそに子31歳」を目の前に、そう思うのだ。



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