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着陸まで1ヶ月!新米火星ローバー管制官の奮闘記

あと1ヶ月で、火星ローバー・パーサヴィアランスが着陸する。NASAジェット推進研究所(JPL)は日増しに忙しくなってきた。

クリスマス休暇直前に「オペレーション・レディネス・テスト」、通称ORTと呼ばれる訓練が行われた。ローバーが火星から送ってくるデータを再現し、オペレーション(運用・管制)チームが本番さながらにデータを解析したりコマンドを送ったりする訓練だ。

僕はこのORTに、オペレーション・チームの新米として初参加した。僕はこの6年ほど、ずっとローバーを「作る」仕事をしてきた。これからはローバーを「動かす」仕事になるのだ。JPLに入って以来、いつかはやってみたいと思っていた仕事の一つだった。

実は5年ほど前、先代の火星ローバー・キュリオシティのオペレーションの追加人員募集が社内であった。応募したが、選ばれなかった。だから今回チームに入れたことがなおさら嬉しかった。

今回のORTは火星着陸後5日間を実時間でシミュレートする。僕のシフトは2日目、つまりローバーが火星に着陸した翌日だった。

その日の朝5時、まだ日が昇らないうちに僕は出勤した。パーサヴィアランスのオペレーションのために新たに改装されたビルに向かう。JPLの内でも特にセキュリティーが高い場所で、許可のある職員しか入れない。カード・リーダーに社員証をかざす。一瞬の緊張。緑色のランプが点灯し、「ガチャ」とドアの鍵が開く音がすると、安堵の息が出てきた。ビルに入る。まだ壁からペンキの臭いがする。入り口の突き当たりに、ピカピカと光る銀色のパネルが掲げられており、

「Mars 2020 Perseverance」

と大きく書かれていた。

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それを見て胸が熱くなった。チームに加わったのは2ヶ月前だったが、ずっとテレワークで実感に乏しかった。コロナに差し押さえされていた実感が、この瞬間に一気に心に流れ込んできた。憧れにまたひとつ、手が届いたのだ。大学にはじめて登校した日や、就職してはじめて出社した日の気持ちに似ていた。

オペレーション・ルームの中の写真を出すことはできないのだが、おそらく皆さんが想像するものに近いと思う。大きな部屋に長机が何列かに並んでいて、その上にパソコンが並んでいる。正面には大きなスクリーンがあり、それを背にしてフライト・ディレクターとミッション・マネージャが座っている。そしてチームは全員、頭にヘッドセットを付ける。

ヘッドセットを使った交信では、名前ではなく「コール・サイン」で呼び合う。僕の役割はSurface Mobility Downlinkなので、略して「モビリティ」だ。フライト・ディレクターは「フライト」、ミッション・マネージャーは「ミッション」と略される。

まず話しかける相手のコールサイン、次に自分のコールサインを名乗ってから話すのがルールだ。例えば僕からフライト・ディレクターに話しかける時は、

「フライト、モビリティー、質問があります・・・」

となる。

ミーティングの後、いよいよ火星ローバーからのデータが届く。訓練の始まりだ。皆、パソコンの画面に向き合い、自分が担当するサブシステムに異常はないかをチェックする。実はこの時、僕はある非常に大事なことを忘れたままだったのだが、この時はまだそれに気づかなかった。

作業をしていると、唐突にミッション・マネージャーの声がヘッドセットに響いた。

「全員へ、ミッション。グリーンカードが出た。」

グリーンカード。その一言でチームに緊張が走った。

宇宙兄弟を読んだ人はピンと来ただろう。ムッタたちが閉鎖環境試験に参加している間、メンバーの一人の福田に「グリーンカード」が出された。そこにはこう書かれていた:

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『宇宙兄弟』4巻 #34より

グリーンカードに書かれた指令は必ず従わなければいけない。宇宙兄弟では、グリーンカードを出された福田が密かに時計を壊すと、チームは混乱に陥った。

このように、意図的にトラブルを導入することで異常事態への対応を訓練するのが目的だ。そのための指示を出すのに使われるのが「グリーンカード」である。ただし実際のORTでは、本当に緑色のカードを渡されるのではなく、Eメールで届く。また、グリーンカードは個人に対してではなくチーム全員に出される。

ちなみに、架空のトラブルを筋書きしグリーンカードを出す役割の人たちを「グレムリン」と呼ぶ。グレムリンとは機械にイタズラをする妖精のことらしい。20世紀の飛行機乗りが原因不明の故障に悩まされていた時に生まれた空想が「グレムリン」だったそう。おとぎ話は科学の世の中でも健在なのである。

ORTの5日間で、グレムリンは十を超えるグリーンカードを出した。具体的な内容は書けないが、ローバーの異常だったり、地上システムの異常だったりした。

グリーンカードが出された時、僕はデータ解析をほぼ終えていた。いったいグレムリンは何をぶち込んできたのだろう。恐る恐るメール読んでみると、その内容は意外なものだった。

良い知らせだったのだ。

実は僕の担当であるモビリティーには前日にトラブルがあった。どうやら前日の担当者の対応が、グレムリンが想定していたよりも用心深いものだったらしい。このままでは試験が前に進まないので、「このトラブルは危険ではないと考え、前に進め」という指示だった。なるほど、グリーンカードは必ずしも悪報ではないらしい。

ところが、別の非常に困ったことが、僕の体内で起きつつあった。

オシッコが限界に近づいてきたのである。

何もかもが初めでだったため、てんやわんやで、オペレーションが始まる前にトイレに行くのをすっかり忘れてしまっていたのである。

オペレーションの最中は無断で持ち場を離れてはいけない。オシッコに行くにもフライト・ディレクターからの許可がいる。もちろん、みんなに聞こえるヘッドセットで直接「オシッコに行く」なんて言わない。三者三様の隠語が使われる。例えば「バイオ・ブレークを取ってもいいですか?」といった具合だ。

そろそろバイオ・ブレークかな、と思っていたタイミングでのグリーンカード発令!解析レポートを書き直さなければいけない。僕は腹…ではなく膀胱をくくり、大急ぎで作業に取り掛かった。これもグレムリンの計算のうちなのだろうか...。

トイレに行く暇もなく「ポル(poll, 投票)」が始まってしまった。フライト・ディレクターが担当者をひとりずつ呼び、「Go」(異常なし)か「No-go」(異常あり)かを確認する手順だ。

「システム、フライト」
「フライト、システムはGoです」
「テレコム、フライト」
「フライト、テレコム、我々もGo」

そんな交信がヘッドセットに響く。僕の番が近づいてくる。緊張する。リスクを見逃してGoを出したら、最悪ローバーを失うことになる。間違えてNo-goを出したら全体のスケジュールが止まってしまう。耳と膀胱から二重のプレッシャーが僕にかかる。

「モビリティー、フライト」

いよいよ来た。

僕は汗をかいた手で発話ボタンを握りながら、頭の中で何度も練習したフレーズを一気に口に出した。声に力が入ってしまった。

「フライト、モビリティー。〇〇のリスクはありますがGoです。」

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役目が終わった後、僕はトイレで5時間分のオシッコと緊張を解放した。疲れていたが、清々しさのような気持ちがあった。

僕は研究や開発においては7年半の実績があり、多くの場合にはチームをリードする立場にある。ところがオペレーションの世界では完全なルーキーだ。チームの一番下の立場で、ゼロからの勉強だった。僕はJPLの多くの職員と同様にプロジェクトを掛け持ちしていて、1週間の半分は相変わらず研究開発でのリーダーシップを取っているのだが、残りの半分はこうして完全な新米の下っ端になったわけだ。一方のプロジェクトでは僕の下にいる人が、パーサヴィアランスのオペレーションでは僕の上にいることもある。

そうせざるを得なかったからこのチームに入ったのではない。もちろん、「PI」という肩書きで人に指示を出しプロジェクトの指揮を執る仕事はやりがいが大きいし楽しい。だが、立場が上がるにつれ新しく学べることの量が減っていくのを感じていた。そして何より、宇宙探査機のオペレーションはJPLで一度はやってみたかった仕事だ。僕はどんどん歳を取る。チャンスはもう来ないかもしれない。そう思い、飛び込んだ。

ふと過去が蘇ってきた。留学したての頃。蓄積は何もなく、右も左もわからず、英語もろくすっぽ分からず、それでもこの努力がきっと未来に繋がると信じてレンガをひとつひとつ積み上げた。しんどいことも多い。でもワクワクする。僕は間違っていなかった。オペレーションが始まる前にトイレに行き忘れたことを除いては。

その後、もう1サイクルのオペレーションをこなし、帰路についた。外はもう暗かった。コロナのせいで駐車場は閑散としている。

若い頃との決定的な違いが、ひとつある。家に家族がいることだ。帰ったらミーちゃんに「火星のロボロボを動かす練習」を頑張ってきた話をしてあげよう。

そう思って、僕は車のエンジンをかけた。

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ひとコマ・宇宙の話をしよう

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小野原画

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新刊『宇宙の話をしよう』では火星のトピックも取り上げられています。これは2月18日のパーサヴィアランスの着陸シーケンスを解説したページです。僕の汚い原画をイラストレーターの利根川さんがキュートで分かりやすく仕上げてくれました!個人的にはミーちゃんのツインテールがヘルメットから飛び出しちゃっているのが大好きです(笑)



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小野雅裕、技術者・作家。NASAジェット推進研究所で火星ローバーの自律化などの研究開発を行う。作家としても活動。宇宙探査の過去・現在・未来を壮大なスケールで描いた『宇宙に命はあるのか』は5万部のベストセラーに。2014年には自身の留学体験を綴った『宇宙を目指して海を渡る』を出版。

ロサンゼルス在住。阪神ファン。ミーちゃんのパパ。好物はたくあんだったが、塩分を控えるために現在節制中。

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