見出し画像

「行きたい会社がなければ、作ればいいんだ」

アクセルスペースCEO 中村友哉さんインタビュー 前編

超小型衛星のフロントランナー、アクセルスペースのCEOである中村さんと、NASAジェット推進研究所の小野さんは、実は大学時代の先輩・後輩の間柄。今回は小野さんに、手作り人工衛星プロジェクトに没頭した大学時代の話から筆を起こし、中村さんがアクセルスペースを起業するまでの経緯を、インタビューをもとに書いてもらいました!

---

中村さんがカリフォルニア州ロサンゼルス近郊にあるNASAジェット推進研究所(JPL)を訪ねて来てくれた。研究室の同窓会などで顔を合わせたことは何度かあったと記憶しているが、ちゃんと話をするのは僕が2005年に修士課程を中退して以来だ。

「おお、オノ。」
「中村さん、ちょっと顔が疲れていませんか?」

14年ぶりの会話は、そんな素っ気ない挨拶から始まった。茶髪が黒くなりはしたが、服装は学生の頃から大差ない。高くて声量のある声も昔のままだった。少し疲れているように感じたのは、社長の責務のせいか、それとも長時間のフライトの疲れか。

中村友哉さん。日本の宇宙産業に通じている人ならば必ず聞いたことのある名前だろう。宇宙ベンチャー「アクセルスペース」のCEO。2008年に大学の仲間3人で創業し、現在までに5機の人工衛星を打ち上げた。2018年には25.8億円の資金調達。現在は66人の社員を雇用し、数十機の小型人工衛星による地球観測網AxelGlobeの構築を目指している。これから市場の大幅な拡大が期待される超小型人工衛星におけるフロントランナーである。

中村さんは東京大学中須賀研究室の、僕の三学年上の先輩だった。ちなみに中村さんの四学年上にはやぶさ2のプロマネの津田さん、そのさらに数学年上に宇宙飛行士の山崎直子さんがいる。

中須賀研究室は2003年に世界で初めて10cm四方の超小型衛星「キューブサット」の打ち上げ・運用を成功させ、僕が研究室に入った2004年は次の人工衛星「PRISM」の開発が行われていた。博士1年だった中村さんはPRISMのプロジェクト・マネージャーを務めていた。声が大きく口調が素っ気ないので最初は少し怖い人かと思ったが、後輩への面倒見はとてもよく、僕もプログラミングや回路設計などについて多くを教えてもらった。

当時、宇宙といえばNASAやJAXAといった国家機関か、三菱電機やNECといった大企業でなくては手が届かない場所だと思われていた。

「学生が手作りしたものが宇宙に行く。」

そんな夢のようなビジョンが、中須賀研の若者たちを夢中にさせた。大半は研究室に文字通り「棲んで」いた。徹夜作業は当たり前。三食はコンビニ弁当。殆どが男、そしてもちろん殆どは彼女がおらず、したがってクリスマス・イブに人工衛星の運用を休むことを提案したメンバーは激しい非難と嫉妬に晒された。折りたたみベッドと数年間洗われていない毛布が一組だけあり、深夜に力尽きた者が交代で仮眠を取った。ベッドにありつけなかった者は椅子を三つ並べて寝た。

振り返って、楽しい時代だった。あの狭くて汚くてカップ麺臭のする研究室には、今俺たちが世界の最先端にいるんだ、新しい時代を切り拓いているんだ、宇宙開発に革命を起こしているんだ、そんな自負と興奮と希望が満ち溢れていた。中村さんはその中心にいた。しかし、彼がさらに大きなビジョンを描いていたことは、当時の僕は知らなかった。

画像1

中須賀研時代の中村さん(上)と小野(下)。2004年のキューブサットXI-IVの、一歳の「誕生日パーティー」にて

---

JPLのクリーンルームや展示室を案内しながら、中村さんと僕は15年分の積もる話をした。どうして起業することにしたのですかと聞くと、

「うーん、俺、元々宇宙が大好きというわけではなくて、どういう関わり方でもいいから宇宙の仕事をしたいというつもりはなかったのね。」

そんな答えが返ってきた。東大に入った時は化学をやりたかったそうだ。だが授業がつまらなくて幻滅した。そんな時に出会ったのが中須賀先生だった。

「学生が人工衛星を作るプロジェクトをやっている、って聞いて、『すげえ』と思って入ったんだよね。」

そして超小型衛星開発に夢中になった。自分の手で作ったものがたった数年で宇宙に行く。そのスピード感と宇宙への「近さ」が魅力だった。いざ卒業が近づいてきた時、大企業やJAXAも考えたが、中須賀研のような興奮はそこには見出せなかった。

「大型衛星って5年、10年かかるのが普通でしょ。人生で大きな衛星に2個か3個関わりました、楽しかったです、というのは、何か違うな、と思ったんだよね。」

ここの考え方が中村さんと僕の一番の違いかもしれない。僕は人生においてたった一つでもいいから歴史に記憶される仕事に携われれば、それで死ねる。それに何十年かかっても構わない。だからNASAを選んだ。ひとくちに「宇宙業界」といっても非常に広い。そこにいる人たちの夢も思想もモチベーションも、十人十色である。

中村さんに転機が訪れたのは2007年、博士課程も終わりかけていた頃だった。進路を中須賀先生に相談したところ、大学発ベンチャーを作る助成金を取ってきているから、これに関わるというのはどうか、と誘われた。その時はじめて「そうか、行きたい会社がなければ、作ればいいんだ」と気づいたという。あまり悩むこともなく、起業の準備をするプロジェクトに飛び込んだ。

プロジェクトにはタイムリミットがあった。2009年3月までに起業できなければ助成金は打ち切りだ。それまでに確固たるビジネスモデルを作り、コアとなる技術を開発し、そして資金を確保しなければならない。

資金集めが鬼門だった。大学発ベンチャーといえばバイオか素材が定番だった当時、「宇宙ベンチャー」などSF世界のファンタジーにしか聞こえなかった。いかなるビジネスプランを描いても、投資に興味を持つベンチャーキャピタルなどなかった。

「だからまずお客さんを見つけるしかない、って思ったのよ。」

かくして中村さんのドブ板営業は始まった。プログラミングや電子回路ならば自信がある。だが、スーツを着て営業に出るなど、もちろん経験がなかった。

「商売としては面白いと思ってもらえるんだけど、じゃあうちのビジネスにどう使ったらいいのと聞かれた時に、すぐにアイデアが出せなかったんだよね。そこでどこの会社も話が止まってしまった。」

数十の会社を回った。地図サービスから玩具メーカーまで、あらゆる業種を手探りで営業して歩いた。どこもダメだった。

「補助金の終わりが見えてきて、『ヤベェな』って感じ出して。もう無理かと覚悟した時に、中須賀先生が紹介してくれたのが、ウェザーニューズだったんだよね。」

ウェザーニューズとは気象情報を提供する会社である。当時ウェザーニューズは北極海航路についての情報を船会社に提供するビジネスを考えていた。日本からの船は北極海を経由すれば、アメリカ東海岸やヨーロッパまではるかに短い距離で到達できる。燃料費節約によるメリットは非常に大きい。しかし、北極海の氷が溶けて航行可能な状態にあるかは、人工衛星の画像を使わなくては判断できない。しかし、当時は人工衛星画像を買うにしても一枚百万円ほどのコストがかかった。これではビジネスにならない。

「超小型ならば、自社衛星を持てる。」

それがブレイクスルーだった。その後、半年ほど検討をした上で、最後はウェザーニューズ会長の石橋さん(当時)が「やろうぜ」とトップダウンで決断してくれたという。石橋さんはそんな「心意気」のある経営者だった。

かくして、2008年、アクセルスペースは創業された。社員は中村さんを含めて3人。皆、博士課程の出だ。3人で開発から経営まで全てをやった。石橋さんはじめウェザーニューズの方々は、技術のことしか分からない3人を温かく辛抱強く見守り、民間企業を経営するというのはこういうことだ、と背中で教えてくれたという。

2013年、ウェザーニューズ向けの北極海域観測衛星WNISAT-1が宇宙へと旅立った。民間が所有する商用超小型衛星としては世界初だった。

画像2

WNISAT-1の模型と中村さん

WNISAT-1の開発がひと段落した頃、さらなる顧客獲得のため、中村さんたちは再び営業活動を始めた。今度はウェザーニューズの実績があるから上手くいくだろうと思った。

現実は、そう甘くはなかった。時代はまだ、アクセルスペースのビジョンに追いついていなかったのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?