見出し画像

子守唄

 真斗さんは幼い頃から施設で育った。理由は分からぬが、自分は捨てられたのだと思っていた。当然親の顔も知らなければ、生きているかどうかも分からない。そのせいで自分の正確な誕生日さえ知るよしもなかった。けれど記憶がらなければ親を憎むこともない。それが日常であり、気にも留めることでもなかったからだ。そんな彼にある出来事が起きた。2月の寒い夜、身体が何かに縛られている感覚で目が覚めた。金縛りだろうか?真斗さんは初めての経験に動揺する。振り解こうともがくが、身体一切動かない。言葉さえも出せなかった。同室仲間の吐息が聞こえるだけ。助けを呼ぶことも出来ない。彼は目を開き、何とか視線を横に少しだけ動かす。すると見たことのない女が、布団に横たわる真斗さんの隣に座っていた。やつれた姿と悲しげな表情。彼の腹を、何度も何度もさする。赤子をあやし、寝かしつけるように。口元は何かを口ずさむよう動いていた。耳には入らぬが、誰もが知る子守唄を歌っているように思えた。人かどうかもわからぬ存在。しかし真斗さんには、恐怖よりも安らぎのような感情が湧いた。理由は全く分からない。次第に金縛りは解け、女はいつの間にか消えていたそうだ。自分の目元に触れると、涙が流れていた。それからも忘れた頃にその女は現れる。そしてある時、真斗さんは気づく。(彼女は毎年2月の同じ日の夜に現れると)
それは施設を出てからも変わらない。悲しげな表情で彼の腹を優しくさすり、子守唄を歌う仕草。ただ女の姿は自分と同じように歳を重ね、くたびれた老女になっていた。時が過ぎ、真斗さんにも家庭が出来た。そして人の親になると、この人を「母」と感じるようなった。けれどある年を境に老女は現れなくなった。理由も分からない。只々今は、あの人にもう一度会いたい。そうと思いつつ、親の愛情を知る術のなかった自分の前に、何故現れたのだ?そんな憎しみの気持ちも芽生えた。その玉虫色の感情に真斗さんは苦しんでいる。

サポートして頂けたら、今後の創作活動の励みになります!