ピープルフライドストーリー (25)ショート小説

【作者コメント   断捨離中にさかなクンがテレビに登場し始めた頃に書いたのかと思われるような原稿が出てきた……。】

     
      第24回

   ある掲示板の前に来た
     おじいさんの
       話

          by  三毛乱

 なだらかな丘に閑静な住宅地があり、その中のこぢんまりしたアパートに、20代の頃住んでいた。
 その住宅地には、一日に数台しか車が通らないので、実にもったいない程広々と感じる舗装道路がいくつもあった。
 ある朝、コンビニからの帰りに、満開にはあと数日であったけれども桜の木のある方へ、ゆっくりと寄り道する事にした。
 小中学校は春休みに入っていた。子供の姿や、大人も車も通っていなくて静かだった。気持ちの良いさわやかな朝の空気を全身に感じながら歩いて行くと、60m程先の角に掲示板があった。ふだんは地域の文化祭や防火訓練などを公示しているが、その時は、誰かの死亡を知らせる黒枠の紙も掲示されていたのが遠目からでも判った。
 すると、角に近い家から、中肉中背の推定年齢80歳の紺のジャージを着たおじいさんが、使い古したペッタンコの靴でトコトコと暗い顔で歩いて来て、その掲示板の前で立ち停まった。
 おじいさんは、黒枠の紙を思いつめた表情で見つめたのち、フーッと溜め息をついた。
「あー、良かった。わしでなくて良かった……」
 と言ったみたいだった。
 静かな空間に包まれていて、そのようにも聞こえて来た。
 だが安堵の表情ではなく、暗く沈んだ顔のままトコトコと家へ帰って行った。でも玄関の一歩手前で、踵を返してまたトコトコと歩いて掲示板の前に来ると、今度はもっと確認するようにじいーっと見つめていた。
 その一連の動きを見ながらもゆっくりと近づいて行き、僕はそのおじいさんのすぐ後ろを通り過ぎようとした。掲示板には83歳で死亡した○○おじいさんの名前と住所が公示されているのが、はっきりと見られた。
 すると突然、それを見ていたおじいさんが奇妙な叫び声を上げ出した。
「ちがーうッ! これはわしなんじゃあッ!! わしは死んでしまったんだッ!!」
 僕はギョッとして、おじいさんからすぐに離れた。
 漫画やコントだったら面白いかもしれないが、現実にこんなおじいさんに遭遇したら、すぐに防御体制をとるしかない。一体「はいはいはい、死んだんです。あなたは間違いなく死にました。アハハハハ」…などと、とてつもなく余裕をかました返答を即座に出来る人がどれ程いるというのか。ともかく僕には、おじいさんを訝しく見る事しか出来なかった。
 おじいさんは、そんな僕の方へくるりと向きを変えると、
「あんたもそう思うじゃろう。あんたもわしが死んだと思うじゃろう。あんたもわしが死んだとちゃんと言ってくれよおッ!」
 と、哀願するような眼で訴えかけてきた。僕は大いにひるんでしまっていた。
「わしは死んだんじゃ! ワシは死んだんじゃ!」
 と、おじいさんは叫びつつ近寄って来て、僕の方へ手を伸ばした。だが、前のめりで地面に倒れた。ゆっくり仰向けになると、眼を大きく見開いて、足をバタバタと動かしつつ、尚も言い募った。
「わしは死んだんじゃ! わしは死んだんじゃ! わしは間違いなく死んだんじゃあ!」
 すると、その声を聞きつけて、おじいさんが現れた家から中年の女の人が出て来た。おじいさんの娘だろうか。あるいは、息子の奥さんであろうと思われた。
「まあまあ、おとうさんったら、もう……、すいませんねぇ、いつもこうなんですよ。気にしないで下さいね。ボケちゃっているもんですから。ここんとこ、調子が良かったのにねぇ。さあ、おとうさん、立ち上がって頂だい。私が恥をかくんですからね。さあ、私に恥をかかせないでね。さあさあ、起き上がって」
 女の人はそう言いながら、おじいさんを立たせようとしていた。
「ああ、あんたか……、わしは死んだんじゃろ。わしは死んだんじゃろ」
「はいはい、おとうさんは死にました。だから起きて下さいよ。さあ」
 女の人は、毎度の事のように、余裕を見せながら言った。おじいさんは甘えた顔になった。
「そうなんじゃ。わしは死んだんじゃ。わしは死んでしまったんじゃよ」
 そして、そう言い終わると、すぐに僕を睨んだ顔つきになって、こう言い放った。
「お前だッ! お前が、わしを殺したんじゃ!! お前だッ! お前だッ! お前がわしを殺したんじゃあッ!!」
 僕はまたもやギョッとした。
 一度目のギョッから二度目のギョッまでの間に殺人犯にされてしまった。1㎜だって傷つけていないのに……。
 女の人は僕の方に軽く笑みを浮かべながら、こう言った。
「はいはい、そうですね。この人がおとうさんを殺しました。間違いなくちゃんと殺しましたよ。殺しておとうさんは死にました。だから立って頂だい、おとうさん」
 僕は更なるギョッギョッギョッだと思った。いくらなんでもそれはヒドイと思った。この女まで僕を殺人犯にしてしまったのだ。ここで何かを言うべきだろうか…。だが僕は虚を衝かれてしまった感覚で、馬鹿みたいに曖昧な笑顔を浮かべたまま二人を見ている事しか出来なかったのだ。
 女はさらに作られた強固な笑顔を保ちつつ、おじいさんを起こそうとしていた。
「おお、そうじゃ、そうじゃよ、よしこさん。この男がわしを殺したんじゃ。この人が殺人犯じゃ。早く警察を呼んどくれよ、よしこさんッ!」
「はいはい。わかりましたからね、おとうさん。警察を呼びますからね。はいはい、ちゃんと間違いなく警察を呼びますから。はいはい、起き上がって、さあさあ…」
 状況は悪くなる一方のようだった。
 このまま、こんな場面に出くわしたままでいると、どんどんとんでもない凶悪犯人にされて、本当に警察に通報されかねないと考えると、恐怖がじりじり募って来て、僕は少しずつ二人から後退りして、ついに逃げるように走り出した。
 すると、おじいさんが叫んだ。
「あッ、よしこさん、あいつが逃げるぞ! 殺人犯が逃げる。あの凶悪犯人が逃げる。捕まえとくれッ!」
 女の人が僕を追って来る事はなかった。もし、追って来たら、僕は本当に恐怖のどん底に落ち込んでいただろう。
「大丈夫よ、おとうさん。逃げていったから。大丈夫よ。殺人犯はいなくなったから。さあさあ、起きて下さい。朝ご飯もまだ食べてないでしょ」
 そんな言葉が、振り返ると聞こえてきた。
 どうやら二人の状況に変化はないようで少し安心した。しかし次の瞬間、とても信じられない状況になった。これからの事は誰もが信じられないと言うだろう。
 おじいさんがスクッと立ち上がったのだ。そこまではいい。だが次に、おじいさんが、僕へめがけて、別人になったような猛烈な走りっぶりで追いかけて来たのだ。しかも、
「こらー、待てえーッ! 殺人犯待てえーッ! 凶悪殺人犯待てえーッ!」
 と、大きな声を上げながらである。
 僕はギョッギョッギョッギョッと思いながらも、おじいさんが追って来るのを振り切ろうとした。
 だが、おじいさんは信じられないくらいに走りが早かった。すぐに、必死に逃げる僕の横に並んで走る格好になった。
 こんなおじいさんに負けてなるものかと思った。実は、僕は子供の頃には走るのが早かったのだ。もっともここ10年以上まともに走った記憶がなかったのだが……。とにもかくにも、おじいさんの走りは驚異的だった。もしかしたら、おじいさんの履いていたペッタンコの靴に何か特別な秘密があるのかと、一瞬疑ったくらいだ。
 おじいさんは不敵な自信満々な笑みを浮かべて、僕に言った。
「ワハハハハ。だらしないのう。わしはこう見えても元オリンピックの選手候補だったのじゃ。お前なんぞの逃げ足に追いつくのは、文字どおり朝メシ前なんじゃあ! わかったか馬鹿者め! ワハハハハ」
 そう言うと、尚も走りを早め、僕をグングンと引き離して前方へ走り去ってしまった。
 僕は呆然として、唖然として、そして悔しかった。
 くそッ! 何なんだ、一体たった今のこの出来事は何が起こったと言うのか?
 しかし、僕の頭ではとても理解できそうになかった。その不可解さを抱えたまま、僕はようやくアパートの自宅の部屋へと帰り着いた。その日は、それから外へ出る事はなく、一日中部屋の中で過ごした。

 そして二日後の事である。
 僕は2㎞以上離れたある商店街の通りを歩いていた。本を買うためだった。
 多くの歩く人々の中に、あのおじいさんがいた。真新しいジャケットをさわやかに着こなし、革靴も新品そうなものを履いていた。生気横溢、意気軒昂とした様子である。顔色もとても良い。しかもつるつると輝いている。
 僕を見つけると近づいて来た。
「やあ!」
 さわやかな笑顔で手を挙げながらやって来た。僕はかなり面食らってしまった。なにかが脱皮した後の、新しく生まれ変わったおじいさんの姿というようなものを見せつけられてるみたいで、何とも不思議な気分にさせられた。
「いやぁ、なんと、なんと、二日前はとても久し振りに走ったものだから、走りに走って、とうとう北極まで行ってしまったよ。ワハハハ。まあ、これは冗談だがね。ワハハハハ」
 おじいさんは大きく口を開けて大声で笑った。
「いやぁ、ゆかい、ゆかい。実にゆかいじゃよ」
 僕はどう反応して良いのか分からず、ただ黙っているしかなかった。
 おじいさんは笑い終わると、今度は僕の顔をじいーっと見つめてきた。そして、疑わしそうな顔になった。
「………ところで、あんたは誰だっけ?……?」

            ─終─
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?