玄倉川水難事故

玄倉川水難事故・・・ネット界隈では『DQNの川流れ』等と呼ばれる事故である。
お盆休みに、職場の友人や家族がグループで玄倉川でキャンプをし、豪雨に伴いダムを放流した際にキャンプメンバー13人が流され亡くなったという事故である。
地元の方や警察・消防の避難勧告にも応えず、キャンプを強行継続した末の参事であった。単に非難を拒否しただけでなく、呼びかけを無視し、暴言を吐き、奇跡的に助かった人も周囲に暴言を吐くなどし、世間の顰蹙をかった。
その警告と居座りが長時間にわたったこともあり、現地にはマスコミのカメラも入っていたため、そのやり取りやそのメンバーが濁流に流されていく様子までも報道され、ニュースや報道バラエティで多く取り上げられた。

 私はその時熱海にいた。
イベントの司会をしており、その夏は約40日間熱海の某ホテルに滞在していた。
仕事時間中はテレビを見ることができないというのはもちろんだが、宿泊部屋も電波が悪く、テレビはほとんと見ずに過ごしていた。
楽屋のテレビは映る状況だったし、だれか居ればテレビはついていたものの、腰を据えて見ることはなかった。
この事故のことはぼんやり知っていたが、自分には関りがないため気に留めていなかった。なんせお盆の熱海である。宿泊客が夏休み中で一番多い時期であり、ショーステージも盛況。自分の仕事にしか意識を向けていなかったのである。
 そんななか、実家に電話した。普段から実家と密に連絡を取るタイプではない。その時連絡したのは、翌年放送開始のアニメ作品で脚本家としてデビューが決まったため、その報告をするためだった。
母にアニメ脚本を手掛けることになった旨報告した後、
「そういえば、テレビとかでやってるキャンプ場の事故・・・Aくんが亡くなったみたい」と言われた。Aくんは小中学校の同期生で、私の実家から彼の実家は徒歩10分弱位。まぁまぁご近所ではある。
 私は小学6年生の春に現在の実家に転居したため、小学校は最後の1年だけ同じ、中学は地元の公立中学で3年間一緒だった。その計4年間で同じクラスになったことはなかったが、Aくんのことは知っていたし、友人の友人ではあった。彼の実家は洋菓子店(いわゆるケーキ屋さん)を営んでいたため、謝恩会等の学校行事では彼の実家の洋菓子がよく使われていた。だから同じクラスにならなくても彼の名前は、同学年の生徒であればほぼ全員が知っていたと思う。
 とはいえ、個人的な付き合いがあったわけではないので、母から彼の名が出ても中学時代の姿しか思い浮かべることはできなかった。
中学時代の彼は、当時は“ツッパリ”と言われるような、ちょっと不良寄りの生徒と割と仲が良かったと思うが、彼自身が目立つような存在ではなかったとようにも記憶している。まぁ、男子中学生ならそんな子は、今も昔もたくさんいるだろう。
 仕事先であまりテレビを見ていなかったとはいえ、連日の報道の様子は気づいていたし、避難を拒否してキャンプ者が流されていく映像も目にしてはいた。
「え、あの流された中にAくんが?」
びっくりした。それ以外の表現する言葉が見つからないくらい、単純にびっくりした。ショックだった。
 役者をしたり、イベントに出たりという職業だった私は、有名人やテレビに出るような人はたくさん知っている。が、Aくんは芸能人や有名人ではない。単なる同じ中学の『〇〇くんの友達』くらいの認識の人だ。
日本中の人が画面越しに彼の亡くなる瞬間を目撃しているのだ。その状況に怒るほど親しくもないが、平静でいられるほど遠くもない。自分でもわけのわからない動揺で心も頭もいっぱいになった。

 件の事故から2週間余経って、私は東京へ戻った。何度か実家に連絡をする中で新たな事実を知った。
Aくんの妹もあの事故で亡くなっていた。Aくんの職場の人と結婚され、あのキャンプに同行していたとのこと。妹さんの夫と子供のは幸い救助されたという。
その妹さんは、私の妹と同級生だった。五十音順で苗字が近かったため、中学入学して割とすぐ仲良くなったようだ。私は知らなかったが、うちに遊びにきたこともあったらしい。
ああいった世間を騒がせた事故なので、当然(なのか?)マスコミも関係者の周りを調べたらしく、妹宛てに取材の連絡がきていたそうだ。妹は取材は断ったそうだが、ご葬儀には行ったらしい。葬儀会場にもたくさんのマスコミがいたそうだ。

 こんな当事者・直接的な関係者ではないものの、完全に無関係とはいえない状態なので、何が正論で何に心を乱されたのかも定かではないまま、長い年月が流れた。
彼のご両親は店を畳み、どこかへ去って行かれた。
二人の子供と孫を亡くされ、しかも世間からは自業自得と言われ、擁護する声もないとは、どのようなお気持ちだったのだろうか。『想像に難くない』というよりは『想像してもしきれない』という感じか。

 人間だれでも過ちはあるし、周囲や他人から非難されたり罵倒されたりすることもあろう。Aくん自身が当時何かを言ったのか、救助の手を差し伸べた人々にとった態度がどのようなものであったのか、私は知らない。
私の記憶では、Aくんはちょっとイカつい友人との交流があったとしても、おとなしい印象の男の子だった。私の方がよっぽど目立ったし問題児的な面もあったと思う。
だから、という表現が正しいのかは分からないが、Aくんを擁護も非難もできない。それは当時も今も、だ。

 当時思ったことは今でも覚えている。事故に関する直接的なことではないが、
「何が幸せかはわからないなぁ」
・・・だ。
Aくんも3歳下の妹さんも結婚し、子供もいて、夏休みには一緒にキャンプに行くような仲間や友達がいた。
私はというと、高校は進学校へ行き、そこで未来の目標を見つけ、猪突猛進し、役者になり、色々な仕事をする中でテレビアニメの脚本家という思ってもいなかったような道を拓き・・・とはいえ、結婚もせずに“ぼっち”だった。
今となってはどうでもいいような気もするが、当時は同世代ばかりでなく後輩も結婚し子供に恵まれ、皆、自分よりも幸せそうにみえていた。
自分の生き方や目標は自分自身が望んで決めてきたことだし、後悔しているつもりはなかった。人の幸せなんで十人十色なのは言わずもがなだし、私なりに充実した日々を送ってはいたものの、若干の不安や落ち着かなさを感じていたのもまた事実だった。
というのも、私は独身主義者ではなかったし、そのうち何らかの縁があって結婚して子供を持ち、家庭を築くんだろうと漠然と思っていたから。
 そういう意味では、私から見たらAくんは幸せな状況にあったのだろうと思った。私の妹もまだ結婚していなかった。Aくんのご両親は息子も娘も家庭を持ち、孫も何人もいて幸せな状況だったのだろうと想像する。
それがあの1日で一転した。
息子と娘が同時に亡くなっただけでも辛い。これは間違いなく辛い。しかも世間は彼らが愚かだったと声高に世間に伝え、死者に鞭打つような言葉が投げつけられる。お孫さんも亡くなった。外孫(Aくんの妹のお子さん)は妹さんの夫とともに一命をとりとめたが、状況から考えるにこれまで通りとは行かない可能性がある(実際はどうかわからないので、あくまでも憶測)。

 その当時、うちの両親からすれば娘二人とも未婚。当然孫もいない。世間一般の感覚でいえば、Aくんご家族は外から見る限り“幸せおじいちゃん・おばあちゃん”だったのではないか。
私の母は、昔から早くおばあちゃんになりたいと言っていた。私が生まれたとき母方の祖母は45歳で、かなり若いおばあちゃんだった。
母は勝手に
「え、おばあちゃん!? 若いおばあちゃんね」
と自分も言われるのを妄想していたようだ。
その願いも空しく、私は若いうちに結婚も出産もしなかたし、妹も30歳目前(つまり29歳)で結婚したものの、最終的には離婚し、孫もいない状況だ。
が、それでも私は生きている。死を選びたくなったことも一度ならずあるが、しぶとく生きている。妹も生きている。両親自身は80代なので、残された時間が長いとは言えないが、命にかかわる持病や痴呆もなく元気にしている。つまりこれからまだ、さらに、多かれ少なかれ、あるいは大小問わず『長生きしてよかった』と思ったり『思いがけず幸せ』と感じる瞬間が訪れる可能性があるのだ。
 もちろん、Aくんご両親にもその可能性がないわけではないが、二人の子供を失うという出来事を補填できるだけの幸せがあるのかといえば、甚だ疑問としかいいようがない。
 結局のところ“幸せ”なんて主観的なものであり、他人が決められることではない。いつ、どこで、どんな状況で“幸せ”がくるかなんてわからない。
それは“不幸(悲しみ)”についても同じだ。
ちょっとしたことで幸せになったり不幸になったりする。感じ方は個々に違うとは思うが。
残念なことに、私が両親に“幸せ”を感じさせることはない気がするが、“不幸”を感じることもないかもしれない。孫を持たせてやれなかったことは申し訳なく思うが、私は孫製造機ではないので仕方ない。そこに私の人生の目標や目的は見いだせない。だが、何も持っていないから“失う”不幸は来ない。
“不幸でないことは幸福”と、両親が思えるかどうかは謎だが。

 とりあえず・・・というのが相応しい言葉ではないかもしれないことは重々承知の上で、Aくんのご両親がご健在であることを祈る。
そして、あの事故を忘れることはないにしても、穏やかな生活を送られていたらいいなと思う。
直接的な交流がなかったのに、ここまで私がご両親を慮る理由は一つ。
6年生の春に転校し、いじめを受けたり仕返ししたり・・・で終わった1年間。いい思い出なんてなかったけど、卒業時の謝恩会でAくんとこのケーキを食べたことだけは憶えてるから。ふわっとしたスポンジのショートケーキ。1年しか在籍しなかったから、その学校の思い出ってあんまりない。
その少ない思い出の一つなんだから、多分忘れない。

 私はAくんと交流はなかったし、ご両親も私のことは知らないかもしれない(知らない可能性が高いと思う)。
でも、私は彼のことは憶えているし、ご両親のケーキのことも憶えている。
今後、件の事故のことは忘れてしまうかもしれないし、ご両親もご高齢だろうから、Aくんのところへ旅立ってしまうかも(あるいは既に旅立ってしまったかも)しれない。
あの当時は自分の仕事や私生活の面で、様々考えざるを得ない時期だった。
決して歓迎できる事故ではなかったが、少なくとも私にとっては“考える契機になったできごと”だったことは確か。
忘れないようにしたい。忘れちゃいけない。

 個人的な“つぶやき”にしては長文になったが、今記しておくべきだと考えて書いた。
 
 Aくん、妹さん、そのお子様方および件の事故で他界された皆さまへ、哀悼の意を捧げます。

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