ルーツの話

古後という姓は珍しい部類の一つである。
盆暮れ正月になると、ついつい、意識してしまう。

古後姓は平安時代くらいにスタートしたとされる。

清原正高という人物が玖珠に左遷されて、地元の豪族の娘との間に子供をもうけ、子供たちに所領を分割して与えたとされている。そのうちの一つ、古後郷を所領したのが古後氏の始祖とされている。豊後清原氏の一党。

玖珠衆12家とか24家とかいわれており、長く玖珠地方を所領し、繁栄したとされている。豊後の国をまとめた大友氏の家臣団として、戦国時代を生き延びた。

大友氏は朝鮮出兵時のミスが原因で取り潰しの憂き目にあう。復活を狙って関ヶ原の戦いで西軍につき、それもかなわなくなる。

大分県は徳川家に取り上げられ、幕府直轄地や外様大名の移籍などで小藩分立の地となった。

このタイミングで、玖珠衆24家は歴史の表舞台から姿を消したとある。

古後本家筋は帰農し、近隣にて庄屋として井路を整備したようである。「古後井路」として名前が残っている。そして、「古後文書」という資料が県の文化財に認定されている。大友家から送られた手紙などが残っているらしい。また、あちこちに活路を求めていったとされている。

我が家の古後家は、村上水軍の末裔の久留島氏が豊後森藩に移籍させられた際、地元の郷士として久留島藩に召し抱えられた古後氏の末裔という事のようだ。帰農を是としなかったのだろう。
しかし、最も小さな藩であり、貧乏な藩であったらしい。家臣も貧困との闘いだったようである。たそがれ清兵衛のような暮らしであったのだろう。

清原正高という人物が史実にもとづく人かどうかは不明らしい。地方の豪族が自分たちのルーツに権威付けをするために創作したものであるという説もある。武士の根源である源氏との関連性をつけたいらしい。

我が家の系図も1800年頃までの戸籍をさかのぼるくらいまでしか、はっきりとはしていない。この時期あたりに創作されたものかもしれない。

さらにいえば、系図を見ても、途中で、男子に恵まれず養子を迎え入れたとある。

さらに古い系図を見ると、最初の古後姓を名乗った始祖も1代で途絶え、親族から養子を迎えて存続したような記述もある。

徳川幕府ですら、大奥システムを作ったとしても、嫡男にめぐまれず、親族から迎え入れている。ひとつの家系が存続するのは並大抵ではないのだろう。

ともかく、今となっては、なにが真実かはわからないが、私の中に流れている血は、なにがしかのご先祖の血によってつくられているのだ。

そんな事であるのだが、故郷に帰り、墓参りをし、古後郷の総氏神、清原正高由来の神社などをめぐる。ルーツとおぼしき場所に帰り、なにがしかの気分になる。

祖先に対して、ふがいない自分ですみません、という気持ちのほうがまだまだ強い。

もうすでに人生の50年が過ぎ去った。先祖に合わす顔がない。そのような結末になるのかどうか。


サポートありがとうございます。